Hondaは、初のスーパースポーツNSXをジュネーブでデビューさせた。そのクルマはほとんど革命的であった。 ポール・フレール
1989年3月、その年のジュネーブショーがスイスで開催された頃、F1シーズンもその幕を開けようとしていた。フェラーリ、ルノー、フォードは、1989年のシーズンが自分たちにとって不利なことを知っていた。何故なら前年の1988年ほど、1メーカーによって、ほぼ完璧に支配されたシーズンはF1史上かつてなかったからだ。そのメーカーとはもちろんHonda。
そしてまさにその絶頂期を選んでHondaは、Honda初のスーパースポーツ、NSXをジュネーブでデビューさせた。予想されたとはいえ、そのクルマは画期的、ほとんど革命的であった。まさにワールド・チャンピオン・メーカーの作るクルマに相応しいものであった。ポルシェとフェラーリのエンジニアたちが血相を変えてHondaブースに集まってくる。彼らのつくるクルマはNSXの前では時代遅れに映った。

その後しばらくして、ニュルブルクリンクの近くにHondaがワーク・ショップを借りて、数千ラップにおよぶテストを繰り返していることが業界に知れわたった。しかしそれでも満足できないHondaの開発担当エンジニアは、その後も数ヶ月間テストを繰り返したのち、私をNSXのテストに招待してくれた。テストの後、NSXが今までにドライブした中で最も優れたロードゴーイング・スポーツカーであると確信するにいたった。このことは厳しいテストを行うことで知られる英Autocar誌が毎年行うベスト・ハンドリング・カーを決めるコンテストで、NSXが2年連続で優勝したことでも実証されている。 余談だが、F1でチャンピオンを獲得したブラバムBMWをデザインした、かのゴードン・マーレイはプライベートカーとしてNSXを購入、のちにマクラーレンF1ロードカーを作る時に、大いに参考としたという事実をHondaはもっと自慢しても良いのではないだろうか。

オリジナルのNSXから3年後、HondaはNSX-Rを発表する。オッフェンバッハ(独)にあったHondaのR&Dが私にNSX-Rを貸してくれて、3週間ほど自由に使わせてもらう機会を得たが、それは私のロード・テスターとしての人生で最も印象に残る経験のひとつとして記憶に残っている。 それはNSX-Rの動力性能がポルシェ993と同等の凄いものであったという理由からではなく、NSX-Rのスポーティなキャラクターを愛したからである。その類稀なる機敏さ、素晴らしいギアボックス、そして何と言ってもあの美しいエンジン音を愛したのだ。
その後1999年に鈴鹿のNSX fiestaに招待された時に、スタンダードのNSXよりスポーティなタイプSに乗る機会を得た。スパ・フランコルシャンの次に好きな鈴鹿と、タイプSをともに楽しんだことを思い出す。また、NSX fiestaは私に新鮮な驚きをもたらしてくれた。 鈴鹿サーキットはNSXオーナーたちの熱気で溢れ、100台以上ものNSXが集まってきていたように思う。それらすべてのNSXが万全のコンディションにあったのもNSXの優秀さを物語っていた。ポルシェ911がヨーロッパでそうであるように、NSXは完全にカルト・カーになったと感じた。
さらには、このことひとつをとってみてもHondaのエンジニアには、NSXをさらに進化させるべく開発を続ける大きなモティベーションになるのではないかとも感じた。
その思い通り、NSXはさらなる進化を遂げた。空力特性を極限まで高めた新しいフロント・エンドなどの採用。そして、新型NSX-Rの開発である。
私はつい最近ツインリンクもてぎのロード・コースで、この新型タイプRのプロトタイプをドライブする機会を与えられた。ツインリンクもてぎには一度も来たことがなかったので、私は数日前からその日を心待ちにしていた。
サーキットで私を迎えてくれたのは「NSXの父」(S2000の父でもある)であり、友人でもある上原 繁氏であった。

コース上には新型NSX-RのプロトタイプのほかにタイプSと初代NSX-Rなどが比較用に用意されていた。私は新型NSX-Rのポテンシャルを最大に引き出すべく、最初はタイプSに乗り数ラップし、今回のテストに使われたショートカット・コースをじっくりと研究した。続いて新型NSX-Rにクルマをスイッチして乗り込み、カーボン製フルバケットシート、ステアリングコラムを調整した。正面に据えられた大きなタコメーターと、ヒール・アンド・トウを行うのに理想的なペダルの配置がうれしい。 左手を左に数センチ移動させると、短いギア・レバーのチタン製ボールの上に自然なかたちで落ち着く。
数ラップこなしたあと、3・4・5速のみを使えばいいことがわかった。それも、5速はピット前の正面ストレートのみでの使用である。正面ストレートの先は下っていて90度の右カーブへと続いている。ストレート・エンドでスピードメーターは200km/hを指していて、コーナーの手前でめいっぱいブレーキを踏んで、ギアを3速に落とす。そんなときも“ドライブ・バイ・ワイヤ”による優れたスロットルレスポンスのおかげで、シフトダウンがピタリと決まる。ギアボックスは新型NSX-Rの売りモノのひとつだ。完璧にマッチしたレシオもさることながら、短いギア・レバーは、扱いやすいクラッチ・ペダルと相俟って、非常に素早いシフト・チェンジを可能にしてくれる。

今回走ったツインリンクもてぎのコースには3ヶ所ほどハード・ブレーキングが要求されるポイントがあってブレーキにとってはタフなコースだったが、全開で数周したあとでも、まったくフェードしなかった。
初代NSX-R同様、新型にもパワーステアリングは付いていない。当然低速域でのとりまわしは一苦労だが、一旦走り出せば素晴らしいのひと言につきる。サイドフォースの増加に応じて、ステアリング保舵力がリニアに高まっていく。リミテッドスリップデフはコーナーの立ち上がりで思い切り加速したいときに威力を発揮する。ただ、ドライな路面でテールを振り出すには、意図的にきっかけを与えてやる必要がある。穏やかなアンダーステアがこのクルマの基本的な特性だが、スロットルを戻すと、それがほんのわずかであっても、即座にアンダーは消える。上原氏によると、新しいセッティングによってラップ・タイムは縮まったと教えられた。
爽やかな天候に恵まれたツインリンクもてぎでの新型を含めたNSX-Rとの再会は、時間の経つのが残念なほど楽しいひと時だった。
12年目の進化を全身で確かめて、NSXが依然世界のトップレベルにあるスポーツカーであることを再確認した。是非これからも進化を遂げ、他の手本であり続けてほしいと願ってやまない。
( NSX Press vol.28より [2002年] )
究極のスポーツカーを選ぶとしたら。

―さて、私の「夢のスポーツカーライフ」についてのエッセイもそろそろ終わりに近づいた。
この文章を終わるにあたって、私は自問自答した。それは、もし私がたった3台だけ、究極のスポーツカーを選ぶとしたら、どれにするだろうかということを考えたのである。一緒に暮らし、日々乗ることが楽しみであり喜びであるスポーツカー。しかし所有できるのはたった3台。思い悩んだ末にこれは不可能であるという結論に達した。そこで私は3台選ぶのをあきらめることにした。その代わり、駐車スペースをもう1台分増やして、究極の4台にしようと決めたのだった。私はそういうところは柔軟にできている(笑)。それでも非常に至難の業だ。そして意を決して選んだ4台は、すべてこのエッセイに登場した。
まず1台目はジャガーXK120(1951-54年)。ハンドリングとブレーキにこそ難はあったものの、そのパフォーマンスといい、美しいスタイリングといい、優れたエンジンといい、リーズナブルな価格といい、当時の理想的なスポーツカーであり、私の人生において重要な役割を果たした1台であるという理由で選んだ。
2台目はポルシェ911S 2.4(1972-73年)。素晴らしいエンジン、70年代初期においては抜群のパフォーマンス、そしてつくりの質の高さ。私が深く開発にかかわった思い入れの大きい1台である。
3台目は初代Honda NSX(1990年)である。むろん理由は、その時代のすべてのスポーツカーの上に君臨した“ザ・ベスト・リアル・ワールド・スポーツカー”であったからだ。そして、最後の1台はマクラーレンF1だ。その独創的なエンジニアリングと感動的であったといっても過言ではない類稀なるパフォーマンスを私は愛する。
そうそう、最後にもうひとこと付け加えたい。前述の4台のほかに私にはもう1台分、駐車スペースを確保する必要がある。15年も愛し続けるCR-Xをどうして手離せようか。
(SPORTS CAR Web SPORTS CARS, MY LIFE AND MY DREAMSより抜粋)
ポール・フレール プロフィール
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