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ノンフィクション小説本田技研

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【 完全燃焼への夢 】

第二話 完全燃焼への夢
 一九九〇年六月某日。
栃木県は宇都宮市の、鬱蒼たる森林に囲まれた本田技術研究所。
同僚のエンジニアたちと、昨夜のプロ野球の結果についてあれこれ談笑しながら昼食から戻ってきた宮野は、
デスクに一枚のファックスが届いているのに目を留めた。
“五代目シビックのVTEC―E搭載車、世界同時発売に変更”。
その日の午前中、東京・青山にある本田技研工業本社で
は、定例の役員会が開かれていた。
そこで、当初はアメリカでのみ発売する予定であったVTEC―E搭載のシビックを、急きょ世界同時発売することが決定されたのであった。
地球規模での環境破壊が、いよいよ深刻な問題になってきた。
今こそ、超低燃費エンジンVTEC―Eの存在意義を、日本はもちろん、
世界中の人々に問うべきである、という判断であった。
 「うん。これで、よし」
自分がこれまで持ち続けてきた信念の正しさが認められたという
誇らかな気持ちと、これまで味わい続けてきた辛苦がやっと報われるというホッとした気持ちとに身を浸しながら、宮野は食後のコーヒーをうまそうにすすった。
ふだんは口の中を潤すためだけに飲む、薄くて大味なオフィスのコーヒーも、この時ばかりは何ともおいしく感じられた。
 VTEC―Eの開発に宮野が取り組み始めた八〇年代後半は、エコロジーが今ほど取沙汰されることもなく、
「燃費のいいクルマは走らない」「貧乏たらしい」といった風潮が主流を占めていた。
そんな時代の中にあって、超低燃費を目玉とするクルマが世の中に受け入れられるかどうかは、きわめて未知数であり、とりあえずアメリカでのみ発売して
みようという策は、当然といえば当然の策であった。
しかし――宮野はどうにも納得が行かなかった。
「まったく日本人というのは、喉元過ぎればすぐ熱さを忘れてしまう。つい一五年ほど前には大気汚染だオイルショックだというわけで、猫も杓子も排ガス規制や省エネを声高に叫んでいたのに、今では俺の甥っ子までが『エンジンはターボでなくちゃ』なんて言いだす始末なんだから。」
行きつけの飲み屋でビールをあおりながら愚痴る宮野に、若い研究員は決まってこう答えた。
「でも宮野さん、クルマは走らせて楽しいものでなくちゃ、という考え方もわかる気がするな。」
もちろん宮野自身、そんなことは百も承知だった。
「だからこそ俺たちが、燃費とパワーの両立を実現せねばならないんだ!」
 排気ガス、燃費、パワー。
これらすべてを解決するのは、ガソリンの完全燃焼である。
それは、すべてのエンジニアにとっての夢でもあった。
そしてVTEC―Eのひな形となったVTECは、その
意味で画期的なエンジンであった。
かねてより進行中のVTEC開発に、宮野が加わったのは一九八七年のことである。
可変バルブの採用によって、低回転域から高回転域まで、むらなくトルクフルに回転させることが可能になった。
そして、VTECはまず、一九八九年モデルのインテグラに搭載される。
VTECの開発・実用化で、「燃費とパワーの両立」という信念の実現に大きく近づいた宮野は、しかし、決し
て満足しなかった。
「VTECなみのパワーで、燃費をもっとアップさせることは可能なはずだ。
そのためには・・」VTEC―Eの開発へ向けた、宮野たちの辛く苦しい道のりが始まるのであった。―――

 「あら、洗たく手伝ってくれるの?」
「えっ!」
振り向くと妻が怪訝そうな顔をして立っている。
ふだんは自分の脱いだ靴下すら床に放りっぱなしにして
おく宮野が、腕組みをして洗たく機の前でじっと立っているのだから、彼の妻がびっくりするのも無理ない。
「いや、そうじゃないんだ。ちょっと渦の動きが気になって・・」などと訳のわからぬことをぶつぶつ言いながら、
宮野はそそくさと自分の書斎に引っ込んだ。
 ここ何週間というもの、宮野はスワール=渦に取りつかれていた。
「VTECのハイパワーをそのままに、さらなる低燃費を実現する鍵は、スワールの発生にある!」

エンジン内で、空気の渦が巻いているところに噴射されたガソリンは、渦の真ん中の圧力が低いところに溜まる。点火プラグを真ん中に置き、点火にあわせてガソリンが真ん中に溜まるようにすれば、最小限のガソリンで最大限のパワーが引き出せるというわけである。
「しかし、だ。そこで問題になるのが、ガソリンを噴射するタイミングと、最適な渦の形状なんだ。」
ガソリンの噴射のタイミングを決めるデータを集めるために、多くの実験が重ねられた。
また最適な渦の形状をさぐるために、透明なガラスのシリンターにレーザー光線を当てて、ぐるぐる回っている空気の渦の状態を下から覗いてみるといった研究も重ねられた。
 このような悪戦苦闘は、実験室の中だけにとどまらなかった。
ある時なぞ、昼休みに注文したラーメンに浮かんでいるナルトの渦をまじまじと見つめるものだから、若い研究員が思わず「宮野さん、昼めしの時ぐらい仕事のことを忘れないと、気がヘンになりますよ」と言ったところ、
「いや、アイデアのヒントはどこに転がっているかわからない。ほら、VTECの開発の決め手となった、二種類のカムを串刺し状にするというアイデアだって、飲みやで焼き鳥を見つめているうちにひらめいたというじゃないか」
と答える始末。
そんな宮野に感化されてか、他の研究員たちも、いつ終わるとも知れぬ試行錯誤の繰り返しに、昼夜を問わず没頭した。
そのかいあって、二つの難問はついに解決される。
ガソリン噴射のタイミングは1/1000秒単位の精度であった。
最適な渦の形状は、ナルトというよりはロールケーキの渦を思わせるものであった。
そして――燃費とパワーの両立という信念に、現在では最も近い距離にあるエンジン、VTEC―Eがついに開発されたのである。

 VTEC―Eを搭載した五代目シビックが発売されて、はや数か月が過ぎようとしている。
売れ行きはいたって好調、カーオブザイヤーも受賞した。
まさに順風満帆といったところか。
しかし、宮野は行きつけの飲み屋でビールをあおりなが
ら、若い研究員を相手にこうブチ上げる。
「VTEC―Eは究極のエンジンじゃない。ガソリンや空気の分子の動きを一つ一つ明らかにすれば、エンジンは完全燃焼にもっと近づくはずだ。
そして、原子や量子の世界が次々と解明される時代にあって、それは決して不可能じゃないんだ。」
勘定をすませて外に出ると、空は満天の星々。
「このきれいな星空を、十年後も百年後も眺められるようにしなければ――」
そう決意する宮野の目に、満天の星々は、ゴッホの絵の

ように渦を巻いて映るのであった。(終)

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