NSX CLUB of JAPANを主宰する富吉さんには、夢がある。少し考えるだけでも楽しくなるような、幸せに満ちた夢は、実現に向けて着実に動き始めている。
それは、2年後の2010年に迎える「NSX生誕20周年」を、日米欧のNSXオーナーとともに、日本で盛大に祝おうというもの。
「THE NSX CLUB OF AMERICA会長のラリー・バスタンザさんも賛同してくれて、『20周年のイベントには必ず行くから!』と話していましたし、ヨーロッパの人たちとも、そのイベントに向けた交流が始まっています。今度、スイスのNSXオーナーとも初めて会うんですよ」。
アメリカもヨーロッパも、もちろん言葉も違えば文化も違う。しかし、NSXを愛することに、世界のどこに住んでいるかということは関係ない、と富吉さんは語る。NSXが切り開いた「スポーツカーでありながら誰もが楽しむことのできる走り」は、世界中の人に国境など軽々と越えさせてしまう感動を与え、それを分かち合うというコミュニケーションを生み出したのだ。
目の前に続くワインディング。相手はスーパースポーツ。これまで乗ってきたクルマとは違うはずだという想いもあった。初めて憧れのNSXのステアリングを握った富吉さんは、助手席にいるそのNSXのオーナーである知人に「何速で走ればいいんですか?」と尋ねたという。返ってきた答えは「何速でもいいよ」。その言葉通り、NSXは何速を選んでいても、山道を泳ぐように走った。3人家族に2シーター…という迷いはあったが、1993年1月にNSXは富吉さんのもとへやって来た。納車の日、ディーラーの駐車場から出てすぐに、路面に吸い付くように走る感覚に感動したのを、今でも昨日のことのように思い出せるという。大雨という、注意の必要な天候ではあったが、夜も更けるまで500kmもの距離を走った。走りの楽しさが、富吉さんの心を捉えて離さなかったのだ。
NSXは、海を隔てた先のオーナーたちの心をも、同じように虜にしていたのだろう。だからこそ、アメリカのオーナーも、NSXを生み出した国、日本との交流を求めていた。NSX CLUB of JAPANの英語版ホームページを通じて届いたメールには、こう記されていた。『日本にはNSX fiestaというすばらしいイベントがあると聞きました。ぜひ参加させてください』。「最初は冗談だと思ったんですが…」と、富吉さんは笑う。しかし彼らは、大まじめだった。1998年のNSX fiestaには22人ものアメリカ人NSXオーナーが来日。以降、このイベントに海外のNSXオーナーが姿を見せることは珍しいことではなくなっている。
富吉さんもまた、アメリカへ渡って交流を楽しんだ。そこではオランダ人NSXオーナーとの出会いもあった。その関係を通じて、ニュルブルクリンクも訪れた。ル・マンで、NSXに声援を送ったのも忘れられない思い出だという。富吉さんは語る。「Hondaはマーケットの調査だけではなく、自らの信念に基づいてNSXを送り出していますよね。専用の工場までつくって…。だから、NSXにはそこに込められた熱いハートを媒介にして、すばらしい出会いを生み出す力が備わっているのだと思います。こんなことができるクルマは、他に思いつきません」。
さながら、言葉も文化も越えて分かち合える美しい音楽のように。
NSXは誕生20周年を前に、今も新たな出会いを生み続けている。 |