傑作マシンとなったNF4も、その活躍によって追う者から追われる者に立場を変え、時の流れとともに基本設計は過去のものとなっていった。GP125での勝率は最後まで抜群だったが、1992年、1994年にはアプリリアにライダーチャンピオンを奪われた。
また、1994年には、前年のワークス先行活動で18年ぶりに全日本125チャンピオン獲得したヤマハが、新型の市販ロードレーサーTZをGP125に送り込んでくるなど、ライバルの台頭著しい状況となっていた。
このため、1995年型RS125R=型式NX4は、長きにわたって使い続けてきたCR派生のクランクケースを取りやめ、完全専用設計としたエンジンと、大きく改良した車体を採用したニューマシンとされた。
実は歴代のRS125Rで最大の課題は振動の抑制だった。これは、バランサーのないモトクロッサーのクランクケースを基本にしていたことによる宿命でもあったが、エンジンの専用設計でバランサーを新設したことで振動は解消された。同時に主に耐久性の面で限界に近づいていた、リードバルブの開口面積も拡大された。
RS125Rでは初めてプロリンクサスペンションを採用した車体は、NF4のウィークポイントをすべて改良する──特に格段に増加したユーザーを考慮し“乗り手を選ばない、幅広い対応性”を意識し、より曲がりやすい車体ディメンションと軽量化の達成が目標とされた。
NF4の後継モデルとして“ライバルには絶対に負けられない”という決意の下、NX4は異例の早期開発とテストを積み重ねてリリースされた。
果たして1995年の開幕戦・日本GP。青木治親の駆るNX4は圧倒的なスピードを発揮、チャンピオンの坂田和人が乗るアプリリアを突き放して、青木自身の初優勝を実現した。その勢いはシーズン中も止まらず、青木は13戦7勝という勝率で日本人RSユーザーでは初となるライダータイトルを獲得した。
さらに翌1996年も青木はチャンピオンとなり、この間には徳留真紀や眞子智実、その後には東雅雄といった日本人ライダーのGP初優勝も実現している。
これらの結果、NF4から乗り換えたユーザーに加え、ライバルメーカーのマシンから再びRS125Rに戻ってきたユーザーも現れ、RSに対する支持を実証。生産台数的にも、バブル崩壊後の日本国内でこそかつての4桁台の数字は望めなかったものの、ヨーロッパでは百数十台とNF4以来の水準を維持し、NX4は次世代のRS125R=GPマシンとして成功を収めた。
その後、NX4は進境著しいアプリリアの存在に手を焼きながらも──1997年に使用燃料がそれまでのアブガスから無鉛ガソリンに限定され、対応するキットパーツの開発が遅れたことでアプリリアに2年連続で破れた──2004年に実質的なマシン開発を、2005年にはキットパーツ開発を終了するまでGP125でトップを走り続け、11年間でのべ6人のチャンピオンを誕生させ、5回のメーカーチャンピオンを獲得した。
その中には、ダニ・ペドロサやアンドレア・ドヴィツィオーゾなど、現在のMotoGPで活躍するライダーがいる。あるいはマルコ・メランドリ、今でもライバルチームで現役を続けるカピロッシなど、現在のMotoGPで活躍する多くのライダーの最初のステップは、RS125Rを駆ったところから始まっている。
チャンピオンを頂点とするレースのピラミッドの頂点を狙うのもHondaの目的であると同時に、その底辺にいるライダーと環境を育成していくのもHondaの使命である。RS125Rにはその誕生以来、“チャンピオンを夢見るライダーの揺りかご”として、2輪とレースをこよなく愛する開発陣が、情熱を注ぎ込んできたマシンである。
このことが、エントリークラスのとても小さな市販レーサーであるこのマシンに、大きな夢と存在意義を与えたと言えるだろう。RSほど世界中のプライベーターに支持され、数多くのバトルと夢を叶えるチャンスを実現した市販ロードレーサーはないとHondaは自負している。
そしてまた、公道用市販車やレーサーといったジャンルを越えた2輪の文化そのものは、本質を見据えた物づくりと継続的な働きかけからしか生まれてこないのも事実だと痛感している。
(文・関谷守正)
RS125Rの開発の変遷とレースの記録は、八重洲出版『別冊モーターサイクリスト』2010年1月号と、三栄書房『ライディングスポーツ』2010年2月号に掲載されています。