市販ロードレーサーは、古くは市販車をベースにその性能を拡大したマシンとして、現代ではワークスマシンのレプリカとして、国内外でレースの隆盛を支え、多くのレーシングライダーを育んできた。
世界的な2ストロークエンジン削減の流れの中で、2009年モデルをもって生産を終了したRS125Rは、その前身モデルのMT125Rから数えると販売期間34年間、総生産台数約1万5000台を記録。一般的に市販ロードレーサーは、多い時でもおおよそ年300台程度という生産台数を考えると、これは異例の数字と言ってもいい。
トップクラスのライダーがスペアマシンとして複数のマシンを用意することを考えると、この数字から推測されるRS125Rのユーザーは、少なくとも1万人前後にはなるのではないだろうか。
そして34年間の間には、のべ29人の全日本125チャンピオンが、世界GP(WGP)を走った23年間では、のべ9人のWGP125チャンピオンがRS125Rによって誕生した。また、WGPでは通算131勝を記録し、11回のメーカーチャンピオンを獲得している。もちろん、これだけの輝かしい実績を残した市販ロードレーサーは他にはない。
その歴史は、近代におけるHondaのレース活動に、さらにはレース文化や2輪テクノロジーの進歩そのものに寄り添ってきた──RS125Rの原点となるMT125R=Honda初の2ストロークエンジンン搭載の市販ロードレーサーは、1976年にリリースされた。
1960年代のGP活動で大きな成果を収めた国内各2輪メーカーは、1969年までに相次いでそのレース活動を縮小した。Hondaによる鈴鹿サーキットの建設やWGPの誘致などで、大きく盛り上がっていた国内ロードレースはその勢いを失うかに見えたが、Honda以外のメーカーが公道用市販車をベースにした市販ロードレーサーを販売していたことで、レースの裾野は確実に広がっていった。
当時、Hondaはレース活動を休止していたが、研究所や製作所の社内チームが全日本ロードレース選手権125ccクラスにプライベート参戦することで、レースの灯を絶やさずにいた。1973年には、2ストロークエンジン主流の状況の中、4ストロークエンジンの公道用市販車CB125JXベースのマシンで角谷新二が全日本選手権125ccクラスのチャンピオンを獲得している。
翌1974年は、ヤマハが2ストローク2気筒の新型市販ロードレーサーを投入。これに対しHondaの社内チームは、この頃リリースされたHonda初の量産2ストローク125=モトクロッサーCR125Mをベースとした単気筒マシンで対抗するが、2気筒マシンの圧倒的スピードの前に2年連続で敗れてしまう。
この時期、Hondaはヨーロッパの耐久レース参戦準備を進めていた。2輪レース活動の再開という空気の中で、CR125Mをベースにエンジンの高回転化とフレームのモデファイを施した市販125ロードレーサーが開発された。
当時、レースサポートを行っていたRSC(レーシングサービスセンター)からリリースされたMT125Rは、Hondaにとっては1963年のCR93以来、13年ぶりの市販125ロードレーサーである。同じ年、ヨーロッパの耐久レースには、その後3年連続優勝を果たすRCBが送り込まれている。