モータースポーツ > ロードレース世界選手権 > 夢を背負ったマシンRS125Rの軌跡

夢を背負ったマシンRS125Rの軌跡

1990年 RS125R

来た、走った、勝った 1987−1990

1987年。20年ぶりに日本で世界GPが開催される。全日本ロードレースは5クラスが開催されており、中でもF3クラスなどは前年に発売された市販車のNSR250Rのユーザーによる参戦が爆発的に増加。文字どおり空前絶後のレースブームが訪れていた。

RS125RのGP投入は、Hondaとしては1966年のRC149以来、21年ぶりのGP参戦となった。ライダーには、GP125で活躍していたイタリアのエッチオ・ジアノーラが採用された。

エッチオ・ジアノーラ(1988年 RS125R)

果たしてジアノーラは、正面から体が見えないほどに上体を伏せ、そのままコーナーに突っ込んでいくという、際立った、そして思惑通りの走りを実現した。ストレートでは2気筒にかなわないものの、コーナーでは他のマシンの間を縫って走り、デビューレースでいきなり6位に入賞し観客と関係者を驚かせた。

その後ジアノーラは6戦目で2位を獲得するなど後半戦でポイントを積み重ね、初シーズンをランキング6位で終えた。優勝こそできなかったが、この結果は上出来だった。

翌1988年の開幕戦は、上位15位に13台のRS125Rがひしめき合った。単気筒化によって撤退したメーカーや開発が遅れたメーカーもあり、多くのライダーがRSに乗り換えたのである。

とは言え、ヨーロッパが延々と築いてきたGPの壁は、そう簡単に打ち破れるものではなかった。単気筒1年目となるこの年、RS125Rとジアノーラは見事に初優勝したものの、GP80から移行してきた小排気量のスペシャリスト=スペインのデルビが立ちふさがり、ジアノーラは2勝しかできなかった。だが、ランキングは2位にまで上り詰めた。

また、この年から畝本久と高田孝慈が、プライベートチームによるGP125フル参戦をRS125Rとともに開始。このフル参戦では優勝こそなかったものの、日本人の上位入賞が可能であることを証明し、多くの日本人ライダーの目を世界へ向けさせるきっかけとなった。

そして、1989年の開幕戦・日本GPでは23年ぶりにGP125が開催され、ジアノーラが優勝、2位畝本、3位高田と続き、以下10位まで日本人のRSユーザーが独占した。しかし、この年はJJコバスやアプリリア、単気筒の開発を終えた老舗のガレリが加わり、戦いは混沌となった。

結果的にライダーチャンピオンはJJコバスが獲得したが、ジアノーラに加え小排気量のベテラン、ハンス・スパーンが駆ったRS125Rは12戦中6勝を挙げるなどして、参戦3年目でHondaにとって1966年以来22年ぶりとなるGP125のメーカーチャンピオンを実現した。

そして1990年は足回りに大きな改良を受けたRS125Rに乗るスパーン、ドリアノ・ロンボニ、ロリス・カピロッシらがチャンピオン争いを展開し、カピロッシがついにRSをチャンピオンに導いた。全体での勝率は14戦11勝、ランキングでは上位5位までを独占することとなった。

ロリス・カピロッシ(1990年 RS125R)

RSは参戦4年目にして圧倒的な結果を残し“GP125はRSでないと勝てない”という存在になり、日本のライダーにとってはGP参戦への足がかりという存在になった──日本人ライダーとGPの転換期が訪れたのはこの直後だ。

日本人とGPの革命へ 1991−1994