1991年の開幕戦日本GPでは、チャンピオンのカピロッシとファウスト・グレシーニを下し、上田昇が電撃優勝を決める。RS125Rに乗る日本人としてのGP初優勝は、そのままフル参戦の切符となった。以後、若井伸之、坂田和人、辻村猛といった全日本トップライダーのGPフル参戦が相次いだ。
この動きはやがて、ほとんどの全日本チャンピオン経験者など、多くの日本人ライダーがGPフル参戦を果たすというムーブメントに発展し、最終的にその人数は22名にも及んだ。これは日本のレース界にとっては革命だった。
それは同時に、彼らのマシンを手がける日本の有力コンストラクターのGP参戦に結びつき、GP125で日本人ライダーやチームが一大勢力を築き上げることとなる。それまで遠くに見えていたGPは、彼らにとって日常の景色になったのである。
これには、RS125Rの市販ロードレーサーとしてのポテンシャルに加え、コンストラクターの活動範囲を拡大したHRCの緻密なサポートがあったことを挙げておきたい。
例えば、RS125Rのエンジン開発では、1回の設計の全面変更から10年程度の長いスパンを考え、フルモデルチェンジの際に技術をすべて注ぎ込むような極端なチューニングや変更を行わず、常に少しずつ進化・改良させてきた。
そうすることで、アフターマーケットでのチューニングの余地を残し、購入後にシリンダーの加工や吸排気系の変更を加えれば、さらにエンジンのパワーアップが可能となる。それがコンストラクターのビジネスの枠を広げると同時に、レースでの競い合いをより白熱したものとする──GP125や全日本125に、Hondaがワークスマシンを投入しなかった理由だ。
重要な役割を果たしたのは、HRCから供給されたチューニング用キットパーツである。キットパーツはシリンダーヘッド、シリンダー、排気チャンバー、ECUで構成されており、HRCが管理する排気バルブ付きシリンダーのキットはAキットと呼ばれ、実質ワークスパーツとしてヨーロッパの有力チームに供給された。
そして、HRCが提供するシリンダーの砂型ブランク(加工前のシリンダー)とデータ、技術指導によって、各コンストラクターが製造・販売したシリンダーが通称Bキットとして、国内外の多くのプライベーターたちの手に渡った。
コンストラクターやパーツメーカーが独自のチューニングやパーツ開発を行うことは、欧米ではレースにおける文化であり、日本のコンストラクターもRS125RのチューニングによってGPや全日本で活躍するチャンスを広げていったのだ。
1987年に登場したNF4は、かつてない頻度の改良と仕様変更を年ごとに受けながらも、1994年まで8シーズンを戦い、3回のライダーチャンピオン、6年連続のメーカーチャンピオンを獲得。年平均1000台以上、1991年には約1500台も生産されたという事実が、その圧倒的な支持を物語っている。