革命前夜、NF4の誕生 1987

それまでのRS125RはCR125Mのスチール製フレームをベースに発展した経緯もあり、すでに125としては大柄な車体となっていた。このため、新設計による車体サイズのコンパクト化が必須となった。そこで、フレームには1985年のNSR500やRVFで採用されたアルミニウム製のULF(ウルトラ・ライト・フレーム)が採用された。

1987年 RS125R

しかし、初めての小排気量GPマシンなのでデータはなく、GP125の参戦経験者もいなかったため、その車体レイアウトはゼロから考えなければならなかった。125のエンジンは小さく、言ってみれば車体のどこにでもレイアウトできてしまう。エンジンをどこに搭載するか──その問題を解決したのは、125ではなく、50や80といった当時の小排気量GPマシンと同じように作るという発想だった。

単気筒エンジン搭載だから、2気筒マシンのように左右のボリュームは必要としないし、何よりも重量的な制約も少ない。それならば、エンジン位置は高く、ライダーは上面に伏せて乗るような、重心位置の高いマシンはどうか。

重心を高くして、ライダーの微妙な動きにマシンが反応してコーナーリングできるようにすれば、コーナーすら伏せたまま走れるマシンとなり、スピードやエンジン回転をなるべく落とさずにコーナーを立ち上がりたい小排気量マシンとしては、理想的な性能になるのではないか。

出来上がったマシンは最低地上高が高く、ライダーは前後に這うように乗るという、上下の厚みが“薄い”マシンだった。試作段階ではストレート走行で伏せたライダーのヒジが、クランクケースの上端に当たるほどだったという。RS125R独特の、前後に細長い車体フォルムが完成したのである。

だが、解決すべき課題は性能だけではなかった。市販ロードレーサーの大幅なモデルチェンジには、市販ロードレーサーゆえに、ワークスマシンにはない現実的な課題が待ち受けていた。

ユーザーにとっては、パーツの使い回しが効き、その選択肢が広い方がレース費用を抑えることができて喜ばれる。販売店にしても、マーケットの小さい市販ロードレーサーを確実に売るためには、その方がメリットとなり望ましい。

つまり、それまでの市販ロードレーサーの開発では従来路線の踏襲が鉄則であり、その内容を劇的に変えることはある意味、タブーだったと言ってもいい。ところが、1987年型RS125R(NF4)ではレーシングマシンとしてのポテンシャルを向上させるために、フレームをはじめ大幅な変更を加えている。

そうなると、スペアパーツなどは前年モデルのものは流用できない。当初はこれに大反対する販売店もあった。“実力ある市販レーサーとして存続するためには、10年先を見越して大きく変える機会が必要。今回はGPで勝てるマシンを作りたい”という説得を続け、販売店の了解をとりつけることは、設計とはまた違った大仕事だった。

量産性やコストの問題もあった。1987年型RS125R=NF4は世界GPでの展開とヨーロッパでのデリバリーを視野に入れていたため、前年の430台から770台へと生産台数を1.8倍に拡大する計画を持っていた。

このため、その生産はそれまでの鈴鹿サーキット内にあったHRC施設からHondaの浜松製作所に移管されたのだが、量産性とレーシングマシンとしての精度保証を両立するために、市販車とは異なる組立・加工を実現する生産ラインを設計する必要があった。

また、コストの面では、当時出回り始めた新しいアルミ素材の導入や、あえてプロリンクではなく構造が簡素な直押し式のカンチレバーとしたリアサスペンションなどを採用した──こうしてRS125RはGPへ送り込まれ、その存在を不動のものとする時代が始まることになる。

来た、走った、勝った 1987−1990