成田さん親子に聞く世界制覇までの30年

Part.3 30年目の金字塔

マシンの限界と表彰台

1990年にジョルディ・タレスの地元、スペインのレリナルス村でタレスと一緒に練習した時の経験は強烈なものだった。高さ2mを超える切り立った崖を、タレスと同じように上ってみるとフレームが曲がってしまい、マシンはアメリカンバイクのようにキャスターが寝た状態になってしまったのだ。

「タレスとマシンを交換してみたら、すごくよくてバンバン行けるわけです。タレスはタレスで“日本製はイマイチだね”なんて言っているし、しまいには“クラッチの調整はもっとこうしないとダメだ”なんて教えてくれるわけで、“ここまで来て、自分はビギナー状態なのか?”と腹立たしい気持ちになったのも事実です」

タレスの地元での練習風景。ふたりのフォームの違いに注目。成田さんはフロントの浮き上がりを抑えるため、不自然にヒザを入れて前荷重を確保しようとしている。対してタレスはニュートラルで自由度のあるフォームを見せる。マシンのジオメトリーの違いが現れた結果だ。

トライアル界初のアルミツインチューブフレームを採用したベータzeroは、89年のSSDTでデビューした。当時のトライアルマシンにおけるトレンド──エンジンの水冷化、倒立フロントフォークも採用した新世代のマシンで、タレスはこのマシンで89〜91年の3年連続で世界チャンピオンに輝いていた。年々ハードになっていくセクションに対して、高剛性のアルミツインチューブフレームは大きな武器となり、以後、ヨーロッパの他メーカーでも採用が相次いだ。

対して当時の日本製トライアルマシンは、空冷エンジンを鋼管製クレードルフレームに搭載するオーソドックスな構造だった。アルミツインチューブに比べて絶対的な強度や剛性は低く、そのジオメトリーなどは過去の物になろうとしていたのも事実だ。88年以降、Hondaはトライアル世界選手権でのワークス活動を休止していたから、その最新動向やトレンドを認識しづらい状況にあった。

「91年用マシンはHondaが一生懸命に改良してくれたおかげで、それなりによくなっていました。しかし、根本的に設計を変えたマシンが必要でした。次期ニューマシンの開発も始まっていましたが、92年シーズンには(熟成が)間に合わない。こちらはすぐにでもトップを狙えるマシンが欲しいという切羽詰まった状況だったので、完成するまで待ちきれなかった。そこで、マシンを乗り換えるという苦渋の決断をすることになったのです」

匠さんはマシンが供与されるいわゆるサテライト契約をHondaと結んでいたが、世界選手権の参戦はあくまでもプライベートという立場だったから、経済的な部分を考えても立ち止まっている時間はなかった。匠さんは92年からタレスと同じベータに乗ることを選んだ。そしてこの年、ついに日本人初の3位表彰台を実現し、ランキング5位を獲得。以後、4年間にわたって匠さんは世界のトップライダーとして活躍する。ランキングは93年7位、94年5位、95年12位、96年17位を記録。通算76大会に出場、64回入賞し表彰台に6回上った。

「優勝こそできませんでしたが、当初から明確にしていた参戦目的のひとつであった“トライアルの改革と情報の収集”という点においては、ひとまずの成果を残せたのではないかと思っています」と父の省造さんは言う。成田匠というライダーの世界選手権における活躍は、トライアルに対する社会一般の注目を集めると同時に、トライアルとモーターサイクルスポーツ関係者の意識や基準を変えていった。

例えば、二輪免許が取得可能な16歳にならなければ国際A級に昇格できない年齢制限、あるいは国際A級昇格1年以内のライダーに対する海外レース出場規制、これらの規則は匠さんの参戦後により緩やかになり、少年たちの夢を妨げないものとなっていった。そして、Hondaはニューマシンを登場させた。水冷2ストロークエンジンをスペインのモンテッサ製アルミツインチューブフレームに搭載した、92年のワークスRTL、94年の市販TLR260だ。

バブル経済崩壊後の日本では、低迷傾向にあったモーターサイクル市場においてトライアルも例外ではなく、いってみれば再び冬の時代を迎えていた。そんな状況下でのニューマシンを送り込むことは、トライアルの灯を絶やすまいとするHondaの意思表示でもあった(ヤマハも92年にアルミツインチューブフレーム採用のTY250Zを発売した)。そして、これが日本人初のトライアル世界チャンピオンを生む伏線にもなるのだが、もうひとつの伏線も忘れてはならないだろう。

 

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