成田さん親子に聞く世界制覇までの30年

Part.3 30年目の金字塔

世界へ

1988年、国際B級チャンピオンの年に出場したスタジアムトライアルで、世界ランキング・ベスト5のライダーたちと相まみえ、1日目には世界チャンピオンだったテリー・ミショーと同じ組で競技に臨んだ成田匠さんだが、結果は予選敗退だった。2日目もジョルディ・タレスとこの年の全日本チャンピオン・伊藤敦志に敗れた。

「こてんぱんにやられたわけですが、それを見ていたHondaの研究所のエンジニアが“バイクの作りが違う”と気づいてくれたんですね。そこから、マシンを色々とモデファイしていきました」

89年、全日本国際A級チャンピオンになった年のマシン(=Honda TLM250R)は、Hondaのワークスライダーだった山本昌也や泉裕朗のマシンよりも“走った”という。そして迎えたこの年のスタジアムトライアルで、10連勝・2度目の世界チャンピオンを獲得したタレスと対戦することになったのだ。「全日本チャンピオンを獲得した勢いもあるし、セクション設定も自分好みだったので、もう気合い入りまくりでした。ところが、タレスが全然ダメだったんです」

注目の対戦で、タレスはまったく精彩を欠いていた。本来のトリッキーでキレれのある走りが不発に終わったどころか、マシン調整のために競技中にパドックに戻るという、通常ならありえないような光景が展開される。結果は予選敗退。原因はマシンだった。彼が乗っていたのは、世界選手権で使っていたワークス仕様のマシンではなく、市販モデルを手直ししたマシンであったため、思うようなライディングができなかったのだ。

成田さんの眼前で展開されたタレスのパフォーマンスは、まったく精彩を欠いていた。これをきっかけに成田さんは世界参戦を決意した。

圧倒的な強さを誇る世界チャンピオンさえも、マシンの出来・不出来に大きくその走りを左右される。マシンさえ完ぺきに仕上がっていれば──それは、匠さんにとって最高の瞬間だったといってもいい。「そろそろだと思ってはいましたが、この時に“今なら世界にイケる”と確信しました」

1990年、匠さんは世界選手権に新型マシン・TLM260Rでフル参戦を開始。この年は、84年の山本昌也と並ぶ日本人最高位・6位を最高に入賞を重ね、ランキングでは12位の結果を残した(SSDTにも参戦し、スペシャルファーストクラス入賞を果たしている)。翌91年は最高位5位、ランキング8位と、日本人としてかつてないポジションまで上り詰めた。快挙と呼べるこの結果に、日本のトライアルファンは興奮し、さらなる期待を膨らませた。

ニューマシンTLM260Rで世界選手権を走る90年の成田さん。

が、しかし。そんな活躍の裏側では思ったようなトライができず、悩む匠さんがいた。それまで手足のごとく扱えた250から新型の260へとマシンを変えての戦いでは、再びマシンとのマッチングを一から探っていく必要があったからだ。それ以前にマシンの根本的な戦闘力が不足していたといってもいいかもしれない。

車体の強度、前後の重量配分などのジオメトリー、さらには細かなセッティングまで、マシン造りのコンセプトがヨーロッパと日本とでは違うことも知っていた。けれども、その差を埋める道のりは、予想以上に長く思えた。日本人3人目の世界フル参戦──日本では分からなかった“世界”の現実。そのレベル向上のスピードは速く、追いついたように見えても、さらにその先へと進んでいたのである。

こちらは92年のベルギー大会。成田さんの右後方には観戦する黒山さん親子の姿が見える。

「何しろタレスと同じ走行ラインに行きたくても、行けなかったんです。特に世界選手権では、セクション設定の傾向に時代ごとのトレンドがありますが、それにマシンが合ってなかったんですね。マシンの微妙な違いが、絶対的な差になって現れるんですよ」

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