成田さん親子に聞く世界制覇までの30年

Part.1 夜明け前の眠りの中で

枯れかけた若い芽

SSDT出場の直前には、あのサミー・ミラーが出場するローカル大会も観戦した。そこでも自分たちのスタイルとは違うトライアルのあり方を知る。

「そこで初めて彼の走りを目の当たりにしたわけですが、我々がイメージしていたジェントルな走りなんてものではなく、スロットル全開でタイヤに付いた泥を飛ばしながら走っていくんですよ。大会だって自主的な運営で、個人の責任において参加するわけです。それこそスタート時間までにやってきて、自分の競技が終わればさっさと帰っていくか、パブで一杯やり始める。大会前後のミーティングなんてやらないわけです」

続く1974年、成田さんはバイアルスTL125の145ccボアアップキットをテストするという名目で再びSSDTに出場。この時は6日目にエンジントラブルでリタイアしているが、その格闘の中で得たものは決して小さくはなかった。

1974年、参戦2回目となったSSDTでは、マシンにRSC製145ccキットを組み込んだ。

「ライダーとしての“誇り”や気持ちの持ち方を学びましたね。そこには自分でトラブルや課題を克服していくことの歓びがある。それがトライアルの根本的な魅力だと思いました」

目の前の難関に立ち向かおうとするマインドありき。その気概を糧にしたテクニック習得こそがトライアルの本来だ。SSDTから帰国してからの成田さんや万澤さんは、そんな立ち位置でトライアルの普及に務めたに違いない。

集合写真は右から成田さん、西山さん、Honda UKのA・ブリッグス、万澤さん。ウェアも前年の黒っぽいオイル引きレザーから、合成皮革のカラフルなものに変わっている。

この年、サミー・ミラーが再来日し、早戸川でカタログ用の撮影とスクールを行った。もちろん、そこには成田さんや万澤さんの姿があったが、一年の間に教わる方から教える方に、ふたりの立場は変わっていた。

70年代前半、大きな盛り上がりを見せた日本のトライアルムーブメントは、しかし、意外なほどあっさりと色あせていく。国内メーカーもこぞってその普及に注力していたはずなのに──今となれば、その注力の見当が少々違っていたのだと思える。

言ってみれば、ゼロからの国内トライアル立ち上げに際して、世界の頂点レベルを意識する余り、競技指向に走り過ぎたきらいがある。発売されたトライアルモデルの多くが本格的な競技専用車だったことが、結果的にエントリーユーザーの間口を狭めていたのだ。

Hondaもサミー・ミラーをアドバイザーに迎えて競技専用車=バイアルスTL250を開発したが、4ストロークゆえの重さやエンジンサイズの大きさがネックとなり、思ったような支持を集めることはできなかった。

また、成田さんたちの普及活動は自動車学校や警察、自衛隊などで行われることも多く、そこではもっぱら安全面の観点に立ったテクニック講習となるなど、実用性を重視したライディングの伝授が求められた。残念ながら、本来のトライアルとは違うトライアルがそこにはあったように思われる。

市場の論理は、先鋭化したトライアルモデルを否定し始める。耕しきれなかった土壌に撒かれた種は芽を出したものの、発育不良を起こしたといってもいい。76年、ダム計画によって早戸川でのトライアルが終了すると、特に関東圏における競技人口は減少していったのである。

これに前後した時期、75年にはカワサキの加藤文博が、77年にはこの年の全日本チャンピオンになったHondaの近藤博志が、トライアル世界選手権(75年にヨーロッパ選手権から格上げ)に挑戦したものの、大きな注目を集めるには至らなかった。

次ページ「未来へと続く道」へ