成田さん親子に聞く世界制覇までの30年

Part.1 夜明け前の眠りの中で

歴史の始まり

いつをその起源とするか──1953年にイギリス・BSAのトライアル用モデルが日本に輸入された時なのか、55年にロードモデルで行われたという“第2回高知県トライアルレース”なのか、ともかく日本で“トライアル”という言葉が聞かれるようになったのは50年代のようだ。

そして、1960年。モータースポーツの啓蒙を目的に日本に招へいされたジェフ・デュークが、日本で初となる本格的なトライアル走行を披露したことで、トライアルに対する認知と興味は一気に拡大した。デュークは50年代のロードレース世界GPで6度のチャンピオンに輝き、数々の記録や新しい試みを実現した当時最高のスーパースターであったが、そんな彼のキャリアはBSAのトライアルチームから始まっていたのである。

日本中のモーターサイクルの愛好者や関係者、メーカーまでもが注目した招へいイベントで、ロードレースの神様が披露したトライアル──これが日本のトライアルの起源だったと言っても悪くないはずだ。

この当時は日本のモーターサイクル自体が発展途上で、トライアル専用モデルなど影も形もないどころかオフロードモデルすら存在しなかったから、マニアたちは高性能をうたった小排気量スポーツモデルにアップマフラーキットなどを取り付け、オフロード向けに改造した“スクランブラー”で荒野を駆け巡っていた。

もちろん、トライアルに関する教科書があるわけもなく、雑誌の紹介記事などを見よう見まねで新しいモータースポーツにトライしたのである。成田省造さんも、そんなモーターサイクル好きの若者のひとりだった。

「60年代はじめ、東京オリンピック(1964年)の頃は多摩川でモトクロスをしていました。大会に出たりして、けっこう熱心にやっていたと思います。ただ、当時からどちらかというと、トライアルっぽい走り方をしていたんですよ」

これは、成田さんがトライアルを選んだのかという動機にもなるのだが、家業のことなどを考えて「あまりスピードを出してケガをしたらいけないと思っていた」と言う。そんな割と生真面目な青年が、トライアルの情報に触れる機会はどんどん増えていった。

1959年の“第1回中部地区トライアル”を基盤に、1964年にMCFAJが開催した“第1回全日本トライアル”が開催された。それまで、草レースレベルの大会は散発していたものの、公式にオーガナイズされた全国規模の大会開催はこれが初めてのことだ。

雑誌でサミー・ミラーと彼のマシンが紹介されたのもこの頃だ。トライアル発祥の地・イギリス出身のミラーは、イギリス選手権、SSDT、FIMヨーロッパ選手権というトライアル界の3大タイトルを獲得した稀代のライダーだった。

65年にはSSDT史上初となる2ストロークエンジンの、しかもイギリス製ではないマシン=スペイン製ブルタコ・シェルパでの初優勝を記録。1971年に第一線を退くまでにイギリス選手権を11年連続、SSDTを5度、FIMヨーロッパ選手権を2度制覇するという、文字どおり前人未到の記録を打ち立て、“トライアルの神”とさえ呼ばれたのである。

「私がサミー・ミラーのことを知ったのも雑誌の記事でした」という成田さんは、70年、この年から始まった“関東トライアル(略称:関トラ)”に出場した。

「それ以前もMCFAJ主催による大会もやっていましたが、関トラは『オレたちが日本のトライアルを引っ張っていくんだ!』という気概を持った人たちが運営していました」と成田さんは言う。

いわば、技術の向上とトライアルの拡大を目指して、第1回大会は1970年に多摩川・拝島橋付近の河原で行われた。関トラは拝島橋以外にも、神奈川県の早戸川や相模川の河原でも行われたシリーズイベントだった。

現在は宮ヶ瀬ダムの底に沈んでいる早戸川はトライアルの聖地となった、全国でも有数のトライアルフィールドだった。SSDTばりの沢登りセクションや、高低差のあるヒルクライムなど地形に恵まれており、数多くのライダーがこの地を訪れた。

中でも現在は宮ヶ瀬ダムとなっている丹沢山中の早戸川は、トライアルに向いたその地形や広大な面積を持っていたため、多くのライダーが集まるトライアルフィールドとして有名になっていった。

成田さんは、その早戸川で行われた最終戦に出場。以後、お腹の大きな奥さんを連れて早戸川に通うようになり、やがて誕生した長男・匠さんもまた早戸川で遊ぶことになる。

次ページ「宣教師たち」へ