いわゆる第一次トライアルブームと呼ばれた、60〜70年代に盛り上がった日本のトライアルムーブメントは、国内4メーカーに初のトライアルモデルを開発させるに十分な動機となった。
1972年9月 : カワサキが450ccマシンでイギリス選手権などに参戦開始
1973年1月 : HondaバイアルスTL125発売(公道走行車)
1973年10月 : スズキRL250発売(競技専用車/国内販売は74年。なおスズキは60年代にイギリス向けの本社製トライアルマシンを製作)
1973年12月 : ヤマハTY250J発売(公道走行車)
1975年1月 : HondaバイアルスTL250発売(競技専用車)。同年、カワサキ250TX発売(競技専用車/ワークスマシンKT250は74年登場)
Honda以外の3メーカーはいずれも、オフロードモデルやモトクロスマシンの2ストロークエンジンを流用しており、当時の最先端モデルだったスペインのオッサやブルタコをその範としていた。さらに開発には各メーカーとも当時のトップライダーをアドバイザー役に起用し、本格的な性能の実現を目指したのである。
HondaバイアルスTL250 = サミー・ミラー
ヤマハTY250J = ミック・アンドリュース(71〜72年のヨーロッパチャンピオン)
スズキRL250 = ゴードン・ファーリー(70〜71年のイギリスチャンピオン)
カワサキKT250 = ドン・スミス(65、67、69年のヨーロッパチャンピオン)
各ライダーとも公式・非公式に関わらず、来日してその走りを披露しているのだが、“トライアルの魔術師”と呼ばれていたミック・アンドリュースは、1972年に来日した際にヤマハの肝いりでライダーやインストラクターの養成を目的としたトライアルスクールを開催している。成田さんは、そのスクール参加者のひとりだった。
「そこで初めて、目の前でフローティングターンというものを見ました。また、斜面でターンする時の体重移動──いわゆるキャンバー走行で、山側/谷側の荷重のかけ方など、学ぶものはとても多かったですね」
今ではビギナーでも知っているトライアルの基礎的なテクニックすら、当時の日本ではほとんど認知されていなかったのである。また、翌73年にはサミー・ミラーが来日し、Hondaの研究所内でデモ走行を行うなどし、ようやく日本のトライアルは世界レベルの走りに触れることができたのである。
結局、ヤマハがアンドリュースのスクールを開催したのは、コンペティターを育成する目的であり、そこから本格的に競技を目指す選択肢もあったようだ。
「私としては、もう少しトライアルの面白さや楽しさを優先したかったので、ヤマハと契約するようなことにはならなかったんですが、そんなところに万澤康央(万沢安夫)が『Hondaでもトライアルの普及活動をやっていて、そのための人材を求めているがやらないか?』と話を持ってきたんですね」
万澤さんはその後、モーターサイクルジャーナリストとして名を馳せた人物だが、関トラの創設メンバーのひとりで、成田さんは70年の関トラ最終戦で万澤さんと出会って以来、その仲間うちのひとりとなっていた──こうして成田さんは、Hondaのモーレク(モーターレクリエーション推進本部)と契約することになる。