1967年のシーズンをもってグランプリ活動から撤退したHondaは、ともすればレースの現場から完全に手を引いてしまったかのように見られがちだった。しかし、翌68年までのF1参戦。そして69年にはマシンサポートのみながらボルドール24時間耐久に優勝。また70年には発売されて間もないCB750がデイトナ200マイルにおける初優勝を飾るなど、その実態は新たな挑戦の場を求める貪欲さに満ちたものであるのは確かだった。
最終的に、ロバーツ1位、バリー・シーン2位に続いて3位となったものの、スペンサーとNSへの注目は一気に高まった。2年連続でタイトルを逃していたロバーツの復調よりも、度重なる怪我から不死鳥のように甦ったシーンよりも、このレースで初めてのグランプリ入賞をはたしたスペンサーの名前が、82年シーズン開幕戦の報道で、多くのヘッドラインを飾ることとなった。ルッキネリ5位、片山6位と、当初の目標は完全にクリア出来た。
スペンサーとHondaについての話題はいつの間にか「彼らは今シーズン勝てるだろうか」から「どのレースで初優勝を飾るだろうか」にかわり、中には「今シーズンのタイトルを奪うのではないか」という推測まで飛び交うようになった。しかし、NS500にとって初のシーズン、スペンサーにとっても事実上はグランプリへのデビューシーズン(正確には81年のイギリスGPにNR500を走らせリタイヤとなっているが)は、それほど甘いものではなかった。優勝を期待されながら、その後のレースにおいて、NSとスペンサーは産みの苦しみを味わうことになる。
続く第2戦オーストリア。季節遅れの雪混じりの悪天候に苦労したスペンサーは予選12番手。ルッキネリも9番手にとどまる。決勝はなんとか雨にかわり、スペンサーは18周目には2位に浮上するもクランクシャフトの破損でリタイヤ。ワークススズキとバトルを繰り広げたルッキネリはレース中のファステストラップを刻んだが、その後大転倒を喫しリタイヤ。片山が辛うじて周遅れの9位となる。
第3戦はフランス。しかしコースの安全性問題でトップライダーが合議の上ボイコットとなり、事実上レースはキャンセルとなる。これによって次戦スペインに直行したメンバーは貴重な時間を有効に使い、マシンのセッティングを進めた。その成果あって、スペンサーはNSでのレース3戦目にして初のポールポジションを獲得。一気に初優勝への望みが具体化する。
しかし、ここでも勝利の女神は彼らに微笑むことはなかった。7周目、エンジン不調で突然ピットインしたスペンサーは、コースに復帰することはなかった。イグニッションコードの破損によって1気筒が不調に陥ったのだ。ルッキネリ5位、片山6位と着実にポイントを重ねたが、スペンサーのリタイヤは大きなショックとなった。またスポットでNSに乗った地元のヒーローであるアンヘル・ニエトも転倒リタイヤとなり、ポイントをあげるには至らなかった。
しかし、スペンサーもチーフメカニックのアーブ・カネモトも、目前に迫っている「その瞬間」に向かってベストを尽くすことを忘れなかった。第7戦ベルギーGP、スパ・フランコルシャン。彼らは自分たちの14番ピットに星条旗を掲げ、決意も新たにそのレースに挑んだ。決勝日7月4日は、アメリカ合衆国206回目の独立記念日だった。
空は、いつ泣き出してもおかしくないほどの厚い雲に覆われていた。雨になれば、また優勝のチャンスは逃げていってしまう…。チーム監督の尾熊は、祈るように上空を見上げた。スペンサーのグリッドは2番目。いつもの上位陣が、回りをかためていた。
スタートは、問題なかった。アルデンヌの濃い緑に囲まれた1周6.972kmのコースを1周するのに、約2分40秒。14番ピットは、固唾を飲んで先頭集団の帰りを待った。 ポールポジションから飛び出したスズキワークスのジャック・ミドルブルグを先頭に、バリー・シーン、グレーム・クロスビー、ケニー・ロバーツ、マーク・フォンタンのヤマハ勢が続き、ルッキネリが6番手、スペンサーはその後ろにつけていた。
ロバーツたちは、思い通りのハンドリングが発揮できずにスピードを伸び悩ませていた。その隙を縫うように、スペンサーはジリジリとポジションをあげていった。そして9周目、スペンサーはトップに躍り出た。ピットの尾熊は、あらためて空を見上げた。 「ここで、降ってくれるな」 東京から来ている芳賀主研に目が合うと、彼も祈るような表情だった。
「行った、な?」「はい、勝ちました」 握り合う手に全身の力がこもった。抱き合う男達の姿があった。喜びを爆発させるメンバーがいた。 アーブが目を真っ赤にしてピットに振り返った。スパ・フランコルシャンの14番ピットで、星条旗が誇らしげにはためいていた。
Hondaにとって、60年代から数えて通算139回目の勝利を手にしたこの日は、グランプリサーキットが新たな時代に突入したことを宣言する、インディペンデンス・デイとなった。