2001年のシーズンを終了した時点で、Hondaは通算525回の優勝数を積み重ねた。500ccクラス156勝、250ccクラス177勝、125ccクラス144勝、そして今はグランプリからその姿を消した350ccクラス35勝、50ccクラス13勝が、その内訳となっている。
その幾多の勝利の中で、ひとりで全体の1割を超える勝利数を稼ぎ出したライダーがいる。彼が90年代に残した栄光の軌跡を抜きに、Hondaの500勝を超える記録達成を語ることは出来ない。グランプリにおける生涯優勝数54回。そのすべてをHondaとともに、そして500ccクラスで達成したミック・ドゥーハンは、これまで61名を数えるHondaグランプリウィナーの中で、もっとも偉大な功績を残したライダーの一人であることは間違いない。
スペンサーの後を継いだのは、オーストラリアが生んだ闘志のライダー、ワイン・ガードナーだった。83年のGPデビュー戦では転倒リタイアに終わったガードナーだったが、その後の地道な成長は、いつしか彼をHondaのNo.1ライダーへと押し上げていった。そして時代は、500ccクラスの歴史の中でもっとも過酷な群雄割拠の時代へと突入していく。
87年に初のタイトルを獲得したガードナーの周囲には、エディ・ローソン、ランディ・マモラ、ウェイン・レイニー、そしてやや遅れてケビン・シュワンツといった、そうそうたるアメリカ出身のライバルたちがいた。ケニー・ロバーツやフレディ・スペンサーといった、いわば絶対的な存在が去った後、その後輩である彼らは毎レース熱戦を展開し、グランプリにおける500ccクラスの存在を絶対的なものへと押し上げることとなった。
ドゥーハンが念願の初優勝を果たすのは、90年の第14戦ハンガリー。この年2度目のポールポジションからスタートしたドゥーハンは、25秒という大きなアドバンテージを保って初のウィニングチェッカーを受けた。これは、僅差での勝負が続いていたこの90年シーズンの中でも、目を見張る大差のレースだった。そしてドゥーハンは最終戦オーストラリアでもポールを獲得。決勝こそ先輩のガードナーに0秒856差で破れるものの、彼はこのシーズンを通して確実に500ccクラスのトップクラスの実力を身につけるとともに、Hondaの500ccクラスにおけるエースの座をゲットすることになる。この年のランキング3位。グランプリ挑戦2年目のドゥーハンは、決して焦ることなく、遙か先の栄光の時代を見据えていた。
89年のGPデビュー以来、耐えて耐えて栄光への道のりを歩んだドゥーハンは、一気に頂点への道を駆け昇った。全14戦中9戦に優勝。2位3回、3位2回でノーポイント無し。ドゥーハンのまさに完璧なレース展開は、ライバルに圧倒的なアドバンテージを保ち、その獲得ポイントはグランプリ史上初めて300点を突破した。
これが、Hondaとドゥーハンの栄光の時代のスタートだった。翌95年、前年ほどの大差をつけたわけではなかったが、ドゥーハンはタイトルを連取。ドゥーハン以下のHondaライダーも確実に実力を発揮し、ランキングで4〜8位を占める活躍を見せた。ドゥーハンの絶対的な実力と、NSRの確実なポテンシャルアップは、Hondaの500ccクラスにおける黄金時代の扉を確実に開いた。
度重なる負傷から立ち直り、90年代中盤から後半の500ccクラスで絶対的な実力を示すとともに、究極の2ストロークレーサーとも言われるNSR500の進化に多大なる影響を与えたドゥーハンは、いまアドバイザーとして21世紀のHondaレース活動を支え、さらに新時代のワークスマシンRC211Vの開発にも多くの貴重な助言を与えている。
静かなる不屈の闘志。継続と安定による圧倒的な戦績。Hondaレース活動に多大な功績を残したドゥーハンの名は、長くその歴史に刻まれるに相応しい、圧倒的なものだった。