1961年のグランプリ初優勝以来、Hondaは順調に成果をあげ数々の勝利を手中にしていた。50、125、250、350各クラスで年間タイトルも獲得し、わずか数年にしてHondaはGPの中核を成す存在へと登りつめた。しかし唯一、まだ足を踏み入れていない聖域があった。それが、グランプリの最高峰である、500ccクラスだった。
1960年代中盤、グランプリの世界でこそ主役の一翼を担うHondaではあったが、公道向け市販車のラインアップ…つまり二輪車メーカーとしての存在感は、世界的に見ればまだまだ駆け出しと呼ぶにふさわしいものだった。Hondaの市販モデルの主力は50〜250ccクラス。250の拡大版である305ccがラインアップの最大排気量モデルであり、500ccや650cc、またはそれ以上といった、英国車に代表される世界の二輪界をリードするビッグマシンは、まだ生産することが出来なかったのだ。
「Hondaは500ccクラス用に6気筒または8気筒を準備している」「V型配置のまったく新しいエンジンを開発している」…海外のメディアが誌面をにぎわす予想記事に反して、500ccクラス用RC181は実にオーソドックスなまとまりを見せていた。50cc2気筒、125cc5気筒、250cc6気筒などに比べればいささか面白みに欠ける500cc4気筒は、それでも85psという、グランプリマシン史上未踏のハイパワーを発揮しており、150kgを超える車重もあって、さしものレッドマンも閉口する悍馬であった。
そしてその弱点は、3戦目で致命的なアクシデントをもたらすことになる。激しい雷雨がコースを洗うベルギー/スパ・フランコルシャンのレース。レッドマンは悪コンディションの中でRC181のコントロールを失い転倒。重傷を負ってその後のレースを欠場せざるをえなくなるばかりでなく、この負傷がもとで引退を決意するに至るのである。これによって、レッドマンとRC181はわずか3戦でそのコンビネーションを解消することになった。
この年、Hondaが掲げた全クラス制覇の青写真に、大きな狂いが生じたのは言うまでもない。500ccクラスでレッドマンを欠いたHondaは、急遽ライダーのフォーメーションを変更。250と350に加え、ヘイルウッドが500ccクラスのメインライダーも兼務することとなった。しかし、ここからのヘイルウッドの奮闘は想像を絶するものだった。
ひとつのグランプリで250、350、500の各クラスに出走するのは当たり前。時には4レースをこなすという大車輪の活躍で、彼はHondaのフォーメーションを守り通した。中でも、第7戦チェコスロバキアGPでは、豪雨の3レースを走りきり、その3レースともに優勝するばかりでなくレース中のベストラップを記録。後に彼のニックネームとなる「マイク・ザ・バイク」は、この年の活躍によって定着することになった。