1954年のブラジル・サンパウロ市市制400年記念国際モーターサイクルレースへの出場によって具体的な前途を見出し、マン島TT出場の宣言に至ったHondaは、1959年のマン島TT初出場6位入賞、1960年の西ドイツGPにおける初表彰台獲得などを経て、ついに1961年緒戦スペインGPで記念すべき初優勝を達成した。続く第2戦では日本人ライダーによる優勝もなし遂げ、さらに最大の目標であったマン島TTも制覇。この1961年には念願の世界タイトル獲得も実現させている。
しかしその頃、Hondaはもうひとつの、否むしろさらに大きなプロジェクトを進行させていた。それは、日本国内に国際的なレーシングコースを完成させ、2輪4輪を問わずレースそのものを我が国に定着させるという、根元的なプロジェクトだった。
1963年の最終戦となる日本GPを前にして、350ccクラスではレッドマンが最終戦を待たずしてタイトルを決めたものの、すでに50、125はスズキに栄冠がもたらされ、これで250を落とせば、Hondaにとって勝利数、タイトル数ともに1961年以来最悪の成績となることは明らかだった。その250ccクラスではレッドマン、プロビーニともに42ポイントの同点で、タイトル決定を最終戦鈴鹿に持ち越していた。
日本における初の世界GPは、そんな状況をはらみながら開催されるに至った。期日は1963年11月10日。それは、日本国中の悲願であった東京オリンピックの開催から丁度11ヶ月前の、昭和38年のことだった。
1964年、Hondaは4輪のF1へとチャレンジの場を拡大していた。65年にF1で初優勝を経験し、66年には新型3リッターマシンがデビュー。ヨーロッパではブラバムHondaが破竹の勢いでF2の連勝記録を伸ばしていた。その1966年、鈴鹿サーキットは4輪のレース統括団体であるFIAの国際トラックライセンスを取得していた。
Hondaの夢は、2輪での勝利を積み重ねながら、さらに大きく広がっていた。本田宗一郎のマン島TT出場宣言には、以下のように記されていた。
「私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであつた。(中略)わが本田技研はこの難事業を是非とも完遂しなければならない。 日本の機械工業の真価を問い、これを全世界に誇示するまでにしなければならない。わが本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある」