「絶対の自信を持てる生産態勢も完備した今、まさに好機到る!。明年こそはTTレースに出場せんとの決意をここに固めたのである。 此のレースには未だ會つて国産車を以て日本人が出場した事はないが、レースの覇者は勿論、車が無事故で完走できればそれだけで優秀車として全世界に喧傳される。従つて此の名声により、輸出量が決定すると云われる位で、独・英・伊・仏の各大メーカー共、その準備に全力を集中するのである。 私は此のレースに250cc(中級車)のレーサーを製作し、吾が本田技研の代表として全世界の檜舞台へ出場させる。
全從業員諸君!本田技研の全力を結集して栄冠を勝ちとろう、本田技研の將來は一にかかつて諸君の双肩にある。ほとばしる情熱を傾けて如何なる困苦にも耐え、緻密な作業研究に諸君自らの道を貫徹して欲しい。本田技研の飛躍は諸君の人間的成長であり、諸君の成長は吾が本田技研の将来を約束するものである。 日本の機械工業の眞價を問い、此れを全世界に誇示するまでにしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。 ここに私の決意を披歴し、TTレースに出場、優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君と共に誓う」
もちろん、Hondaは1959年の初挑戦以後、その目標をマン島TTからロードレース世界選手権シリーズ全体へと拡大していくことになるが、その初志はあくまでもマン島TTへの挑戦と勝利を目指すものであった。中でも250ccクラスこそが、当初の出場予定クラスであったことがその宣言には記されている。
マン島TTレース250ccクラス。それは、世界を目指すHondaの前にそびえる最高峰の頂きであり、まさに特別なレースでもあった。
Hondaチームは、グランプリへの挑戦3年目の1961年を好調に滑り出していた。第1戦スペインGPにおける、トム・フィリスの初優勝(125ccクラス)。第2戦西ドイツGPにおける高橋国光の日本人初優勝(250ccクラス)。続く第3戦フランスGPではトム・フィリスが125、250ccの両クラスを制し、ここまで6戦中4勝と絶好のスタートを切っていた。
そして迎えた第4戦が、マン島TTレースだった。125ccクラスのマシンは60年型のRC143にモディファイを加えた2RC143を主力に据えた。250ccクラスは61年型のRC162が予想通りの性能を発揮し、不安材料はまったくなかった。
1961年6月12日午前10時、ダグラス市長が振り下ろすイギリス国旗によって125ccクラスのレースはスタートした。マン島ならではのインターバルスタートによって、ヘイルウッドはルイジ・タベリの10秒遅れでスタートしたにもかかわらず、2周目にタベリをとらえてトップに進出。しかしタベリもこれを許さず、最終ラップに辛くもヘイルウッドをかわし2秒4の差をつけてチェッカーを受ける、しかし、インターバルスタート時に10秒早くスタートしていたタベリは、結果的にヘイルウッドに7秒4遅れてフィニッシュラインを通過することとなった。