しかしその緒戦スペインGPは、Hondaにとってまだ本来の1961年シーズンが始まっていたわけではなかった。このレースでフィリスが駆ったのは、前年型RC161に手を加えた暫定モデルであり、ワークスチーム本隊が合流し完全な新型RC162が投入されたのは第2戦の西ドイツGPからだった。
'60年第1戦フランスGP。伊藤は老兵レンシュポルトを駆って500ccクラスに挑み、初挑戦ながら6位に入賞した。GPの500ccクラスにおける日本人の入賞は、もちろんこれが初めてであり、「FUMIO ITO」の名はグランプリにおいて大きな注目を集める存在となった。日本人ライダーで「天才」と呼ばれたのは、伊藤が初めてだった。
1960年7月24日、高橋はGP挑戦2年目のHondaチーム第2陣のメンバーとして、西ドイツGP/ソリチュードでグランプリのデビューレースを迎えた。出場した250ccのレースでは、Hondaスピードクラブの大先輩である田中健二郎が3位に入賞。日本人として初めてグランプリの表彰台に昇るという快挙をなし遂げていた。高橋も緒戦ながら6位に入賞し、周囲は充分な期待を寄せることとなった。
高橋はその後も好調を続け、'61年のランキングでは、125ccクラス5位、250ccクラス4位となった。そして迎えたグランプリ2年目の'62年、125ccクラスで好調2連勝のスタートを切った彼は、日本人初のチャンピオンへの道を一気に加速し始めた。誰もが、その快挙を信じていた。
浅間からグランプリへ、そして4輪での大きな成功。高橋国光は、日本のモータースポーツの先頭を走り続けた。1999年10月24日、秋晴れで晴れ渡るツインリンクもてぎを訪れた4万3千人のモータースポーツファンに囲まれ、彼は41年間のレース生活にピリオドを打ち、静かにヘルメットを脱いだ。いつもの微笑みに包まれたその表情は、グランプリ初優勝の時と変わらぬ、穏やかなものだった。