「僕が本格的に競技に参加する時には、スタジアムトライアルが毎年日本で開催されるという流れがありました。年に一度、世界のライダーと対決できるチャンスがあったわけですね。88年の大会では、世界チャンピオンの(テリー)ミショーと同じ組になったわけですが、僕なんかB級の17歳ですよ。もう格が全然違うわけで、さらにミショーは強面で迫力がある人じゃないですか。それで“うわ、ミショーって怖いなぁ”と感じて、もう息が止まりそうなくらい緊張したのを覚えています」と匠さんは言う。
80年代の日本の好景気に押される形で、スタジアムトライアルは毎年開催されるようになった。主催にTV局が乗り出し、会場が東京の代々木体育館に移されると、一気にメジャーイベントとして認知度も向上した。当時の匠さんのように若い世代のライダーにとっては“腕試し”であり、緊張しながらも世界のレベルに触れるまたとない機会になったのである。
いまだ勝てるレベルではなかったが、多摩テックの頃のように“どうやってここを走ればいいんだ?”と戸惑う日本人ライダーに対し、“All easy”と言いながら軽々とクリーンしていくルジャーンというような光景はもうなかった。問題は“行けるか行けないか”ではなく、“減点をどこまで抑えられるか”だった。さらにはこの頃になると、マシンの特性や作り込みにも、より具体的な方向性を求めるようになっていた。
「スタジアムトライアルなどで世界のライダーと戦う機会があると、彼らと自分たちのマシンの方向性が違っていることに気がついたんです。車体はフレームの考え方からして違っていましたし、前後の重量配分も違っていた。僕のマシンはフロントフォークに鉛をつけて前を重くしていたくらいです」
1989年、国際A級に昇格した匠さんはこの年、史上最年少の18歳で全日本チャンピオンに輝いた。“生まれる前から”早戸川に行って以来、モーターサイクルと自転車でトライアルの頂点を追い求めてきた匠さんにとっては、その道程の通過点に過ぎなかったかも知れないが、日本のトライアルは、若きスーパースターの出現に沸き立った。同じ頃、世界選手権にも、新しいスーパースターが登場していた。
この年、10連勝という圧倒的な強さで世界チャンピオンになったのは、スペイン生まれのジョルディ・タレスだ。タレスはBTR出身のライダーで、ルジャーンのライディングすら古くさく見えるほどトリッキーなライディングを身上とし、乱暴にいえばセクションを飛び回る“曲芸のような走り”で、世界選手権の話題をさらっていた。彼の乗るイタリア製のベータもまた、そのライディングに合わせたような新しいスタイルを持ったマシンだった。
そして1989年のスタジアムトライアルで、世界と日本のチャンピオンが一騎打ちを展開するのだが、その結果は意外なものに終わった。そこで匠さんは、“今なら世界へ行ける”と決断を下したのである。