成田さん親子に聞く世界制覇までの30年

Part.2 世界を目指せ

自転車に乗りなさい

「例えば、クラッチレバーを握っても、クラッチが完全に切れないそれまでの外国製2ストロークマシンに比べて、Hondaのマシンはスパッとクラッチが切れるし、ハンドリングなど取り回しもスムーズだった。そうでなければ、リバースとか、フロントやリアをチョコチョコ動かすような真似はできない。つまり、マシンの性能を最大に生かした走り方だったように思います。そして、BTR(バイシクルトライアル)の動きを取り入れていた点が、大きな特徴でしたね」と、成田さんはルジャーンの走りを振り返る。

「ちょうどその頃、服部さんから“ヨーロッパにはBTRというものがあるんだ”と聞いていました。丸太の上で向きを変えるとか、空中でターンするって話でした。実際に見てみたら、バイクでも上がれないような高さを自転車で上がってしまうわけですよ」と言うのは匠さんだ。多摩テックのスタジアムトライアルのアトラクションでは、BTRヨーロッパチャンピオンのテリー・ジラールと、ルジャーンの弟でBTRベルギーチャンピオンのエリックが、デモ走行を行ったのだ。

そして、その衝撃的な走りの秘けつや練習方法を聞かれたルジャーンは“バイクで練習する前に、まず自転車に乗って練習すべきだ。BTRのテクニックはトライアルに反映することができる。自分もBTRでトライアルのテクニックを学んだ”と語っている。

2ストロークよりエンジン重心が高く、重量も重くなりがちで、なおかつ出力特性もリニアな4ストロークのRTLは、瞬発力とグリップ性を重視した特異なマシンだったといってもいい。ルジャーンはそのマシン性能を最大限に引き出すコントロールを体得していた。そのベースには、エンジンの駆動力ではなく、ボディアクションと優れたバランス感覚によって増幅されるBTRの運動性があったのである。さらにいえば、ルジャーンはトレーニングに器械体操やトランポリン運動まで取り入れていた。 

それまで、父・省造さんの練習についていって、幼い頃から子供用マシンでトライアル遊びをしていた匠さんは、大きくなるにつれ日常的にはBMX用自転車でトライアルの練習を行っていたが、スタジアムトライアルをきっかけにBTR用自転車での練習を始めた。省造さんが関係者の協力で入手したモンテッサ製のBTRは、日本に輸入された最初の一台だった。

「バイクみたいなダブルのフロントフォークで、スキッドプレートが付いている。しかもペダルのギア比はほぼ前後1:1で、最初は“いったい、どうやって乗るのだろう?”って感じでしたね」あるいは、その当時匠さんが練習で使用していたヤマハTY125は「BTRよりはるかに大きくて重いわけです。それをBTR的に動かすには“どうすればいいんだ?”と悩みもしましたね」と言うように、世界レベルのトライアルを見据えた人々の試行錯誤が始まったといってもいいだろう。

それに合わせて世界のトライアルやBTRに関する情報も徐々にだが増えていった。丸石モンテッサをはじめ、国内の自転車メーカーからもBTR用自転車が発売され、多摩テックでは定期的にBTRの大会が開催されるようになった。トライアルライダーの家族や知り合いの少年たちの多くがBTRを始めたのだ。

この頃、1982年の11月には日本で最初のスーパークロスが開催され、83年の10月には全日本ロードレースの最終戦にGP500チャンピオンのフレディ・スペンサーが出場。どちらも、超絶ともいうべき世界最高レベルの走りを見せつけ、ファンは熱狂し、関係者はショックの淵に沈んだ。“世界への道が見えてきました……ずうっと先の方にですがね”とは、生駒でルジャーンのデモ走行を解説した近藤博志(74〜77年全日本チャンピオン)の言葉である。

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