成田さん親子に聞く世界制覇までの30年

Part.2 世界を目指せ

1983

イーハトーブTL125に続いて1983年に販売されたTLR200は、公道走行モデルであるにも関わらず、服部が実戦で証明したように高いポテンシャルを実現していた。本格的な性能を持ったこのモデルは多くのライダーに支持され、発売初年度1万7000台というトライアルモデルとしては異例の販売台数を記録した。このことが、第2次トライアルブームと呼ぶべき新たなトライアルムーブメント隆盛の一端を担ったのだが、もうひとつ、この年の新春に、トライアルへの注目と人気をかつてないレベルに押し上げる出来事があった。

世界選手権には、服部と同じようにTL200E改250、RTL360と乗り継いで、80年、81年とランキング4位を獲得したライダーがいた。ベルギーで“天才少年”と呼ばれていたエディ・ルジャーンだった。軽くて瞬発力のある、2ストロークエンジンのマシンが主流になっていた当時のトライアルシーンで、独創的な4ストロークの大排気量マシンであるRTL360を走らせたルジャーンは82年、22歳で世界チャンピオンを獲得した。

成田さんはこの年に、世界選手権に参戦していた服部と一緒にヨーロッパの大会を4戦連続で視察している。「セクションの難易度もダイナミックさも、日本とは全然違っていましたね。イタリアやフランスでは1万人も観客が集まるほどの人気で、黒山の人だかりなんです。その中に頭角を現していたルジャーンもいましたが、使っているタイヤからして違うわけです」

82年世界選手権イタリア大会でのルジャーン。81年からRTL360に乗ると一気に頂点へ上りつめた。画像の前輪はミシュランラジアルだ。

そのタイヤは、ミシュランが初めて作ったトライアル用のラジアルタイヤで、当初はSWMのジル・ブルガ(81年の世界チャンピオン)、次いでルジャーンに供給されたスペシャルタイヤだった──現在のようにインターネットなどの情報伝達手段がなかったこの時代においては、ヨーロッパのレースに関する情報は極端に乏しく、RTL360、エディ・ルジャーン、世界チャンピオンという単語は断片的に伝わってきたが、その実態はごく一部の関係者だけが知っており、日本ではまったく知られていなかったと言っていい。

そして、83年1月。東京都下にあった多摩テックで行われる日本初のスタジアムトライアル=GPA 83インターナショナル・スタジアムトライアルへ出場するため、そのルジャーンが来日したのである。イベントの直前には肩慣らしも兼ねて、奈良県にあった生駒テックの跡地(=通称・生駒)でデモンストレーション走行を行った(生駒は、関西を代表する人気のトライアルフィールドだった)。世界チャンピオンの走りを見ようと、関西と関東、多くの関係者やトライアルファンが詰めかけた。

その走りには「もうビックリするだけしかなかった」と、成田さん親子が口をそろえるように、生駒でも多摩テックでも、その走りを間近に観た者はただ驚くことしかできなかった。静止状態から後輪を軸に前輪を振って向きを変える。その逆のリア振り。あるいは足をつかずにマシンをリバースさせてマシンを切り返す“スイッチバック”。極めつけは斜面から伸び上がり空中で180°ターンする“エアターン”だった。

ルジャーンは日本では想像もしていなかった動きによって、異次元レベルの走破性を見せつけたのだ。特に“前に進むことしか考えていなかった”日本のトライアル界にとって、マシンをバックさせる走法は衝撃的だった。マシンをバックさせる発想や試みはそれまでも当たり前にあったが、当時の規則ではバックして足つきすると減点5になるため、間違いなく足をつかずにバックできる自信がない限り使えないテクニックだった。それをルジャーンはいとも簡単にやってのけたのである。成田さんたちのSSDT参戦とトライアル宣教師の来日からちょうど10年。ルジャーンの登場は、それまでの日本におけるトライアルを根底から覆すほどの大事件となったのだ。

それは、一見すると誰にも真似のできないアクロバティックな走りでありながら、実際には緻密にコントロールされたマシンと身体の動きによって成り立っていた高度な作業だった。何しろ、多摩テックではセクションの試走を担当した国際B級ライダーが“どう走ればいいのかわからない”と、途方にくれるほどの難易度に設定したのだが、ルジャーンは12セクション中の11セクションをいとも簡単にクリーンしてしまった。

 

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