Part1 : 8耐の本質と10回の敗北
失敗の記録──1986年以前
Hondaは、これまで32回行われた8耐のうち10回のレースで優勝を逃すという失敗を記録してきた。Hondaにとっての8耐は敗北からスタートしている。
1980年
結果 |
84年にTT-F1レギュレーションが施行されると同時に、耐久選手権は世界選手権格式になり、8耐も日本で開催される唯一の世界選手権となった。さらに日本における2輪ブームにより、この頃から8耐に対する内外の注目度は大きく高まっていった。
特に、8耐優勝を最優先に開発したRVFをHondaが投入した85年は、ヤマハがワークス参戦を開始。Hondaの大型新人だったワイン・ガードナー/徳野政樹と、ヤマハが満を持して送り込んだYZFに乗るケニー・ロバーツ/平忠彦の一騎打ち〜ラスト30分の逆転劇という結果になり、8耐の人気は爆発的に上昇。
これらの状況をふまえ、Hondaは8耐を世界GP(現MotoGP)と並ぶ最重要レースとしてとらえ、こん身の力を注ぐようになった。そのために、マシン性能やライダーの技能レベルはいうまでもなく、ピットワーク作業の効率化・標準化をはじめとする総合的なチーム戦略で、8耐の勝利を狙うスタイルを導入していく。
また、87年には10年ぶりの4輪F1(初のレギュラー開催)、20年ぶりの2輪世界GPが、ともに鈴鹿で開催されることとなり、サーキット全体が大きく改修された。これによって、それまでピットとピットレーンを隔てていたコンクリートウオールも撤去され、ピットレーンに対してダイレクトにアクセスできるピット環境が実現された。
8耐におけるピットのあり方も大きく変化し、さまざまな用具や設備がところせましと配置されたその空間は、小さな工場にも似た様相を呈するようになる。それは、8耐が国内4メーカー(87年からカワサキもワークス参戦)の総力戦の場となった証だったといってもいい──そしてHondaは、この大きな意義を与えられるようになった時代に、唯一の2連敗を喫する。