
初の実走テストに望んだHondaとレイホール、最初のエンジンはFCV |
雨宮やエリオットらのほかにもうひとり、CART参戦に胸躍らせる生粋のHondaエンジニアがそこにいた。このプロジェクトを立ち上げた張本人、朝香充弘である。「HondaでF1をやりたくて入社した」という朝香は、しかし本人の希望とは裏腹に第一期のF1参戦にはいっさい関わることができなかった。 やがて年月が経ち、その朝香が1984年にアメリカの研究所に駐在。現地でCARTのレースを目の当たりにして以来、「昔かなわなかった夢が、沸々と自分の中に湧き出てしてくるのを、抑えることができなかった」と本人は言う。 朝香は早速リサーチを開始、途中からエリオットという最強のパートナーも得て、1989年、当時Hondaのディーラーを持ったばかりのボビー・レイホールとロング・ビーチのレースで会う機会を得る。レイホールはCARTでシリーズ・チャンピオンに輝くベテラン中のベテランだ。 レイホールは朝香やエリオットを歓迎し、様々な情報を提供した。その頃、日本でもようやく初めてのエンジン開発が始まり、朝香から送られてくるデータをもとに、翌年、スタディ用ともいうべき最初のエンジンが完成する。1990年3月、朝香はアリゾナ州フェニックスのF1にやってきた当時の本社社長、川本信彦にレイホールを秘密裏に引き合わせ、乗り気だったレイホールは川本にCARTの素晴らしさを懸命にアピール。 こうして徐々に現実味を帯びてきたCARTプロジェクトだが、まったく問題が無いわけではなかった。当時、日本はF1に全精力を注いでいる最中で、なかなか開発が進まなかったのだ。やがて、このF1参戦が1992年で休止となる事が決定し、ここにきてやっとCART参戦に向けての正式なGOサインが内部で出される。Hondaの初めてのパートナーとなるのは、その協力を惜しまなかったレイホールのチームに決定した。
1992年6月、テスト用のまっさらなローラ・シャシーが日本に到着。装着に関する様々なデータが取られたあと、アメリカに戻ってカラーリングが施され、冒頭のデトロイト・ショーに展示。翌月、レイホールのチームから選ばれた専属のテスト・スタッフと、Hondaのエンジニアが初めて顔を合わせ、マシンが組み上げられる。 そして、朝香にとって「決して忘れることのできない」4月21日。カリフォルニアにある研究所の専用テストコースにおいて、様々な夢を乗せたHondaローラは、“フォン、フォン”というターボ特有の乾いた音とともに、レイホールの手によって勢い良くコースに飛び出していく。様々なアメリカの夢を載せたHondaが、ついに走り出した! そのあとも数々のテストをこなしたHondaは、9月10日にラス・ベガスで行われた全米ディーラーミーティングで、関係者にテストが無事終了したことを報告。1994年からの本格参戦を全世界に向けて正式にアナウンスし、舞台にレイホールが登場すると、全米のディラーから集まった3千人もの関係者はひときわ大きな拍手を贈った。 大興奮に包まれたラス・ベガスからの帰り、チームのあるオハイオへと向かうレイホールの自家用飛行機の中で、朝香は「やっとここまで来たな」と、レイホールと改めて握手を交わす。雲の上で、レイホールが開けたシャンペンの音が響いた。

初テストを終えて記念撮影、みな夢と希望に満ち溢れていた | |