予想だにしなかった厳しい現実と、
信頼していたパートナーの離脱
片方のウイングを失いながらも8位に入り、
初戦でHondaにポイントをもたらしたグロフ | | 「この年は、苦しかったというひとことに尽きるね。いかに新しいレースの世界を甘く見ていたかという、反省の年でもあった。もう、必死になって失敗を食い止めなきゃいけないから、そのための苦しさっていうのを嫌というほど味わったよ」。参戦初年度となった1994年を振り返り、朝香は開口一番にそう語った。
1年間をかけて精力的にテストを行い、満を持してCARTに臨んだHonda。1994年3月20日、その初戦となった開幕戦のオーストラリア・サーファーズパラダイスにおいて、レイホールは追突されてリタイアに終わったものの、チームメイトのマイク・グロフは8位入賞、貴重な5ポイントをもたらした。
幸先のいいスタートを切ったかに見えたHondaだが、本場アメリカに戻り、初のオーバルとなった2戦目のフェニックスで、Hondaは自分たちのエンジンがまったく通用していないという厳しい現実に直面する。レースがスタートして間もなく、あっという間に周回遅れとなってしまったのだ。結果的にグロフが6位にこそ入ったものの、その内容は惨憺たるものだった。
しかし、いったん投入したエンジンをすぐに換えることなどできるわけも無く、迎えた第4戦、シリーズのメインイベントであるインディ500ではスピードが出ないばかりか、ことごとくエンジンが壊れてしまう。そのたびにチームの関係者は怒鳴りちらし、Hondaのスタッフはまともに顔を上げて歩くこともできない。
チームは前年に新しいシャシーで失敗し、予選落ちを喫していただけに“2度目”は有り得なかった。1回目の予選で、このままでは間違い無く予選を通らないと判断したチームは、Hondaになんの断りも無く、別のチームから他のシャシーとエンジンを丸ごと借り出して2度目の予選を走ることを決める。Hondaは最後の予選にアタックするチャンスすら与えられず、いきなりチームから“出て行ってくれ”と言われてしまったのだ。
「最後にトレーラーから出て、カギをガチャンと閉めたとき、こみ上げてくるものがあった」と当時を振り返る朝香。「500マイルレースは我々にとって初めてだったから、レースを走りきる信頼性を上げることばかりに目がいって、パワーがおろそかになってしまった」。戦わずして、Hondaはインディアナポリスを後にしたのである。
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