ジャメ・コンタント号/初めて時速100Kmの壁を破った魚雷のようなEVスポーツ。
カミーユ・ジェナッツィが乗る ジャメ・コンタント号。 まるで現代の電車のような操縦桿である。
このあと、のちにロールス・ロイス社を創設するC.S.ロールスが1902年に挑んだが、101.5km/hとおよばなかった。
コンタント号は、パリの「CONSERVATOIRE NATIONAL DES ART ET Me TIERS」(292rueSaint-Martin,Paris75003)に展示してある。
たとえば東京から岡山まで移動する場合、
交通手段として何を使用されるだろうか。
飛行機の場合、純然たる飛行時間は約1時間15分で片道21,750円。新幹線はのぞみで3時間強の片道17,690円だ。
移動に絡む条件によって左右されるが、迷うところではある。
これが福岡だと飛行機は約1時間40分で片道27,050円、のぞみが約5時間で片道23,560円となるから決着がつく(価格は通常期)。
約1秒で検温できる赤外線式体温計が人気なほどせわしない現代だけでなく、移動時間への関心は自動車誕生当時の昔も高かった。
1829年にはイギリスで、500ポンドの賞金を賭けて新たに登場した蒸気機関車と馬が速度競争をしている。結果は、時速46.7kmをマークした機関車が勝ち、陸上交通の王座を馬から奪い取った。
しかし、誕生したばかりの自動車のライバルは、速い機関車ではなく自転車だった。
奇しくも自動車誕生に合わせるかのようにペダルとチェーンによる駆動方式を手に入れた自転車は当時、1km区間66秒で平均時速54.5kmの速度記録を持っていた。
自動車専門誌「フランス・オートモービル」による1898年の第1回スピード・コンテストは、シャッスル‐ローバ伯爵の駆るジャントー電気自動車が、1kmの助走スタートのコースで、自転車に9秒差の57秒、63.16km/hの平均速度で勝利した。
それを聞いて挑戦状を叩きつけたのが、自転車レースから自動車開発に打ち込んでいたベルギーの技師カミーユ・ジェナッツィだった。1899年1月17日に初挑戦。ロードカーの改装車で66.6km/hを記録しローバを破る。
すぐさま70.33km/hに記録を伸ばしたローバを再び80.47km/hで破ったものの、たった数日でローバが92.7km/hを記録。
一旦引き下がらずを得なかったジェナッツィだが、 ロードカーの改装型に換えて魚雷のような流線形ボディのスペシャルカーを引っさげ、
1899年4月29日、今からほぼ100年前に105.92km/hをマークして圧倒したのだった。車名は「ル・ジャメ・コンタント号」。
ボディにバッテリーを満載し、60馬力の電気モーター2つを後輪に直結した“決して満足しない”という名の記録挑戦車だった。
スピードへのあくなき挑戦をイメージさせる名だが、浪費家の奥さんへの軽い皮肉を込めたネーミングだったらしい。
電気自動車が最速とは現代の我々にとって意外だが、動力源として一日の長がある電気モーターと蒸気機関、そして新参者のガソリンエンジンと、当時の自動車の動力源は三つ巴の争いを演じていたのである。
また当時、時速100km/hを超えると心臓発作か呼吸困難に陥ると説く医者もいたほどで、スピードに対する挑戦は生死をかけた冒険でもあったようだ。
backnext

NSX Pressの目次へNSX Press Vol.24の目次へ

NSX Press vol.24 1999年10月発行