翌'71年のクレマー911Sは2381ccとなり、アーヴィンとコーブにギュインチー・ヒューバーを加えた3名のドライブで総合10位/クラス4位を収める。総合優勝はファン・レネップ/マルコのポルシェ917Kであった。そして'72年は911S最後の年となる。2466ccのエンジンを持つこの年のクレマー・ポルシェは、アーヴィンとフィッツパトリックの手によって予選ではGTクラス1位の健闘ぶりを見せたのが、5時間を経過したところでクランクシャフトを折ってしまいリタイアの憂き目に会う。ウィナーはペスカローロ/ヒルのマトラーシムカMS670であった。後に伝説的名車となるカレラRS2.7の誕生を見た'73年、クレマーはそれを2806ccに拡大したスペシャルマシンをシッケンタンツ/ケラー/兄のアーヴィンに委ねた。3000ccのマティーニ・ポルシェには僅かながら及ばなかったものの、総合8位/熱効率指数賞1位という満足すべき成果であった。勝者は'72年に続いて連勝を飾ったペスカローロと、新たにコンビを組んだラルース、マシンも2連勝のマトラーシムカ670であった。
'74年ルマンにエントリーしたフル3000ccのクレマー・ポルシェ・カレラRSR。そのコクピットにはもはやアーヴィン自身の姿は見られなかった。高度にプロフェッショナル化したクレマー・チームに在っては、御大自身がドライバーとしての喜びを味わう余裕などなくなったためである。ヘイアー/ケラーにドライビングを委ねたこのRSRはしかし6時間走っただけでシリンダーヘッドを壊し、リタイアせねばならなかった。
そして'75年、クレマー兄弟は新しいビジネスを考え出す。費用の捻出に悩むルマン参加者の負担を軽くするとともに、クレマー自身のレースビジネスの助けとすべく、レンタル方式の“ルマン・パッケージ”をはじめたのだ。クレマー・ポルシェで参加を希望するエントラントに対してマシンとメカニック、さらに必要に応じてインストラクターまでをセットで1週間貸し出すシステムである。早速その恩恵に浴したのは、'75年ルマンで総合9位入賞を果たしたボラノス/コントレラス/ビリーだが、なんとこの3人のドライバー、ルマンは初めての経験であったという。
'76年は2台のクレマー・ポルシェ934が出走、1台が総合19位、もう1台はリタイアとなったが、'77年は、ウォリック/グルジャン/スティーブ組のクレマー934が7位入賞(クラス1位)、さらに'78年には3台エントリーした935の1台が6位に食い込み(クラス優勝)、いよいよクレマー・ポルシェの名は不動のものとなる。
'79年のルマンはいつもとは違って土曜日の午後2時にスタートした。フィニッシュの日曜日(6月10日)が欧州議会選挙の投票日に重なるための異例の配慮である。それはともかく、この第47回ルマンはポルシェのワークス・グループ6マシン、936/78が勝利するものと信じられていた。しかしその2台の936は相次いで調子を崩し、その後トップに立ったフォードM10も程なくトラブルに見舞われてしまう。ようやく陽が傾きはじめた午後9時、危なげなく首位の座を得たのはクレマーK3ことポルシェ935改、ルトヴィッヒ/ウィッティントン兄弟のドライブする純白のマシンだった。
2位で続くメタリックレッドの935はディック・バーボア・チームのマシンだったが、1台間を置いて3位でフィニッシュするのはクレマー・チームのもう1台、グリーンの935であった。この年、クレマーは前年に続いて3台の935をルマンに持ち込んでいたが、残るもう1台も見事に完走、13位に入っていたのだから文句のつけようなどあるはずもない。これこそはクレマー・ポルシェ・チームの、ルマン挑戦10年目にして勝ち得た最良の戦果であった、だが、それがただのポルシェではなくクレマーの手によるものであったことを知る人は意外に少ない。そしてこのルマンで最大の話題になったのは、2台のクレマーに割って入った2位の935のドライバーの一人、あのポール・ニューマンであった。

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NSX Press vol.14は1994年8月発行です。