日本国内でクレマーの名を耳にすることはよほどのマニアでもあまりないだろう。1970年から欠かさずルマンに姿を現わし、その10年目に当たる'79年には本家ポルシェのレーシングスポーツを出し抜いて、見事、クレマー仕立ての935を勝利させた、ルマンの、そしてポルシェのスペシャリスト集団である。その、'79年ルマン・ウィナーとなったクレマーK3という車名さえほどんど知られていないのは、ベースとなったポルシェ935のネームヴァリューの大きさ故と言ってしまえばそれまでだが、その一言で片づけるにはクレマー兄弟32年間の実績はあまりにも大きく、手堅いものと言わねばなるまい。
1937年生まれのアーヴィン・クレマーは2つ年下のマンフレートと共に1962年、故郷のケルンにガレージを開いた。自動車解体を業とするささやかな自動車屋ではあったが、持ち前の真面目さが幸いして、やがて2人はモータースポーツの世界に足を踏み入れる余裕を身につけることになる。最初は小さなヒルクライムだったが、アーヴィンの方はすぐに自らの才能に目覚め、国内ラリーやツーリングカーレースにもドライバーとして参加、かなりの好成績を収める。ポルシェとの出会いはちょうどその頃デビューした911で、2人はすぐにその1台を買い入れて自らチューニングを施し、ポルシェ911としては世界で初めてのレースに参加するのだが、実はポルシェ本社がエントリーした“ワークス911”もまさにその日に別のレースにデビューしたことが判明、“世界初”の記録は作れなかったのだという。
それでもポルシェでレースに挑む勢いは昂じるばかりで、'67年からは海外にも足を伸ばしはじめ、2年目の'68年にはモンツァ1000kmで望外の成績を収めたのに勢いづいたのか、スパ24時間ではクラス優勝、ETC(ヨーロッパ・ツーリングカー選手権)ではシリーズ3位の出来映えであった。クレマー・ポルシェは強い。そんな風評はこの頃すでに確立していたのだ。
自らチューンしたポルシェを兄がドライブし、弟がチームを取り仕切ってレースに挑む。それが好成績が続くとあれば、ルマンに目を向けはじめるのはごく当然の成り行きにちがいない。1970年、クレマーはついにルマン参加を決意する。クルマはもちろんポルシェ、911Sのフラット6を自らの手で2253ccにスケールアップしたスペシャルマシンであった。伝統のルマン式スタートが危険に過ぎることから現在のスタンディングスタートに改められたこの年、ルマンは何度か激しい雨にたたられ、51台の参加車中、最後まで走り続けたのは僅か15台、完走と認められたマシンは7台のみという厳しいレースだったが、アーヴィン・クレマーとニコラス・コーブのドライブしたそのクレマー・ポルシェは3790.63kmを走破、最下位ながら総合7位入賞を果たした。ちなみにウィナーはヘルマン/アトウッドのポルシェ917L(12気筒4494cc)であり、これこそがポルシェにとって記念すべきルマン初優勝なのであった。
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