大きな話題を伴って登場したメルセデスベンツ300SLR 3リットル直列8気筒マシン。ご覧のように、コーナーリングの際にテールのエア・スポイラーを大きく開き、減速させるシステムを採用しているのがその理由だ。他のチームやドライバーは、視界を妨げられて危険だとアピールしたという。その抗議は認められなかったようだが、自車のバックミラーの視覚確保の点では怠りなく、一部スポイラーを透明にするという配慮を施してある。他社がディスクブレーキを採用する中、ドラムブレーキしか採用することができなかったための苦肉の作であろうか。しかし、ルマンの悪夢と呼ばれたあのアクシデントを引き起こしたことは忘れがたい。1955年、第23回大会。

1963年。フェラーリが4連覇をかけて臨んだ第31回大会。結果は波乱の末に、1位から6位までを独占する形でフェラーリ(3リットルマシン、平均時速190.071km/h、走行距離4561.710km)が完全勝利を成し遂げた。その一方で、ロータスエリートが珍事を巻き起こしている。1周目にファーガソンがドライブするエリートは、難コーナーミュルサンヌでアウト側のサンド・バンクに突っ込んでしまったのだ。しかし、すぐさまシャベルで砂を掘って脱出。再スタートしたまではよかったが、また次の周に同じ所に突っ込んでしまった。再び穴掘り作業再開。そして、必死に掘り続け再度の脱出。そのかいあってか、総合10位、クラス優勝を果たした。こうした穴掘りドライバーは以後も何度となく登場している。

1967年。もう、この頃になると身近なスポーツカーのレースという雰囲気は薄れている。フェラーリの挑戦を退け、アメリカ人によるアメリカマシンのルマン制覇というエピソード付きで優勝を果たしたフォード(7リットルマシン、平均時速218.038km/h、走行距離5232.9km)にしても完全なるレーシングマシンに等しかった。その中で、GTクラスに挑戦したのがこのシボレー・コーヴェット。このクラスは出場車54台中、8台に過ぎなかった。その中にあり、7000ccV8の威力で同じクラスのフェラーリGTB、ポルシェ911をものともせずトップを独走していたが、エンジントラブルでリタイアを余儀なくされた。

ひたひたと迫るフォードの影に怯えながらも、フェラーリはなおも連勝をめざす。過酷なサバイバルレースのなかでついにフォード勢は全滅し、生き残ったフェラーリが3位までを独占し勝利した(3.3リットルマシン、平均時速194.880km/h、走行距離4677.11km)。しかし、フェラーリの快進撃はこの1965年まで。翌年から4年間はフォードの天下となる。その影で注目を集めたのが、このローバーBRM。ガスタービン車で、'63年に特別参加して総合7位獲得以来、2度目の参加である。今回は一般車クラスに編入されたため、ヒートエクスチェンジャーを装備して出走。途中で異物を吸入してオーバーヒート気味になりながらも総合10位に入賞した。ステアリングを握ったのは、ヒルとスチュワートである。


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