Honda モータースポーツ MotoGP 〉Honda 250ccクラス 通算200勝の軌跡
Honda 250ccクラス 通算200勝の軌跡
国光
 裕紀くんが優勝したザクセンリンクは、僕も走ったことがありますよ。結構アップダウンの激しいコースですよね? 本田宗一郎さんに「何でファステストラップを出しているのに勝たないんだ」と怒られた記憶があります。当時、僕は何しろ速く走りたくて、是が非にもファステストラップを出したかったんですよ。

 それから、お客さんがすごく多かったことも覚えています。観客席の後ろの方の人は、ポールのようなものを立てて、その高いところにイスをくくりつけて観戦していましたよ。そんなに多くの観客がいるなんて、当時の日本では考えられなかった。やっぱりWGPはすごいな、と感動しましたよ。

 裕紀くんは、いつ頃から現実的にWGPを目指すようになったの?

 
裕紀
 僕が現実的にWGPを意識したのは、全日本選手権2年目の2001年。ツインリンクもてぎで開催されたパシフィックGPに、ワイルドカードで参戦してからです。

 このレースは予選も決勝もよくなかったけれど、GPライダーと一緒に走っていて「このままがんばれば、もしかしたらレギュラーライダーとして走れるかな」「資金面も含めて難しいことだらけだけど、がんばるしかないな」と思いました。

 だから、2004年に「Honda Racingスカラーシップ」(Hondaの日本人若手ライダー育成制度)が創設されたときは、何が何でも獲得したいと思いました。でも、第1期生は青山博一くんに決まり、とても悔しかったです。WGPに行けないんだったらレースを止めてしまおうかとも思いました。でもあのとき諦めなかったから、翌年に第2期生になれ、WGPに行けることになって本当によかったです。

フォト
2004年全日本ロードレース選手権250ccでチャンピオンを獲得した高橋選手
国光
 僕のWGPへの第一歩は、1958年と翌59年に全日本クラブマン・レースで優勝したこと。この優勝のおかげで、WGPにチャレンジするためのライダーを探していたHondaの目に留まり、Honda スピード・クラブ(Hondaワークス・チーム)の一員になれたんです。

 Honda スピード・クラブは、いつも遠くから見ていた憧れの存在だったので、まさか自分がなれるとは思ってもいなかったですね。そんな現実味のない感じで、WGPにチャレンジすることになったんです。

 デコボコの砂利道をオート三輪が走っている時代のことで、まだ日本にロードレースのサーキットはありませんでした。Hondaの荒川テストコースは長い直線だけなので、コーナリングのテストができないんですよ。

 それでも僕は、突っ込み勝負のバイクレースは、大和魂と度胸のある日本人の方が、外国人より速いと思っていました。でも、度胸だけではレースに勝てないんですよ(笑)

 
裕紀
 僕が初めてレースのために外国へ行ったのは、2005年シーズン開幕前のヘレスでした。日本のサーキットと違って、ヘレス・サーキットはバンプが多くて滑りやすいのですが、意外といいタイムで走れてしまいました。その後のレース結果は、悪い方向に行ってしまったんですけど……。

 日本のサーキットはキレイでグリップもいいので、全日本時代はバイクが振られることは、ほとんどありませんでした。でも、海外のサーキットは路面が粗く、バイクが振られやすいので、お尻を当ててバイクを落ち着かせるために、シートの後ろにパッドをつけています。

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2005年3月のプレシーズンテストで走行する高橋選手