東雅雄が初めて“引退”を意識したのは1999年のことだった。この時、東は“あと5年ぐらいやれるかな”と漠然と考えている。ちなみにこの年のランキングは3位、2000年は同4位、2001年は同5位、そして2002年のランキングは8位だった。2002年、東は雨のリオGPで優勝した。これがGP通算10勝を挙げた東にとって、最後の勝利となったのである。
2003年シーズンの開幕前、東はひそかに年内の引退を決意していた。この状態ではどうがんばってもチャンピオン獲得は無理だろう。毎年シーズン開幕直前まで資金調達のために奔走するのも年々辛くなっていた。確かにもう少しで取れるはずだったチャンピオンを取らないまま引退するのは悔しい。だが、東は現実を現実として捉えるリアリストでもあった。また、全日本時代から世話になってきたブリヂストンが、就職の誘いをかけてくれていたことも東にとってはありがたかった。
2003年、東はフィンランド人のアキ・アジョの運営するアジョ・モータースポーツというチームから世界グランプリ125ccクラスへ参戦した。5年間一緒にやってきたオリビエ・リエジョアはデルビに移ることになったが、東はHonda
RS125+ブリヂストンでレースを続ける道を選んだのだった。しかし、思うような成績を残すことができずにシーズンも終盤に入っていた。そして、東はもてぎで行われたパシフィックGPの際に、2003年いっぱいでの引退を発表した。
もてぎの2週間後に行われたオーストラリアGPは、東が得意なフィリップアイランドで行われた。この時、東はチームメイトのアンドレア・バレリー二に優勝をさらわれて2位に終わった。「できることなら勝ちたかったけど、最後にテレビにたくさん映ったから良かったかな」。それは東らしい考え方だった。最終戦バレンシアGPでは14位に入り、2003年シーズンをランキング16位で終えた。最後のチェッカーを受けた時も東は特にエモーショナルになることはなかったという。「それで自分の人生がゲームオーバーになるわけではないのだから」とクールに現実を捉えていたのである。 |
 |
 |
スクーター・レースをやっている頃から本田宗一郎関係の本を読むのが大好きだったと言う東。今から50年以上前に“世界一になることを”を目ざしてHondaがマン島TTレースにチャレンジしていたことに関して「当時としては本当にすごいことだったんだろうなと思いますね」と東は言う。そして、「そんなHondaのマシンに乗って、世界グランプリに挑戦できた自分は本当に幸せでした」とも語ったのだった。
|
 |
 |
引退を決意した東が、そのことを早い段階で伝えた友人のひとりに、現在スーパースポーツ世界選手権に出場している藤原克昭(スズキ)がいる。1992年にノービス125ccクラスにデビューした時、初戦で3位に入った東に後塵を浴びせ、優勝したのが藤原だった。その後、二人は異なるカテゴリーでレース出場を続けたが、海外でレースをするようになってからは二人ともベルギーのリエージュに住み、よく一緒に飲みに行ったり、食事をしたりしていた。
東から引退のことを聞いた藤原は、驚いた様子で「へえー!?、へえー!?、へえー!?」と「へえ」を繰り返したが、それ以上は語らなかったという。引退は誰でも絶対に通る道、それがいつになるかというだけの話だ、と考える東同様に、同じライダーである藤原も引退を決意した東の気持ちがよく分ったのかもしれない。
2004年2月1日からブリヂストンの社員となった東雅雄。「ディーラー勤めをしていた時代が第一の人生で、グランプリ・ライダーだった時代が第二の人生なので、これからは第三の人生ですね」と明るく語った東は、新たなチャレンジのスタートを切ったのである。
(おわり) |
 |
 |
|