東 雅雄という男
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第三章 Honda500勝に貢献
プレッシャー
東雅雄が“Hondaの世界グランプリ通算500勝が2001年の日本GPで達成されるかもしれない”と最初に知ったのは、2000年の最終戦、オーストラリアGPでのことだった。その時、東は“Honda 500勝達成ステッカー”というものがあるのを見つけてしまったのである。オーストラリアGPの125ccレースで東が決めた優勝は、Hondaにとって通算497勝目だった。その時点で、東自身は500勝というのがどれほど偉大なことかよく分っていなかったという。ただ、“来年、もし鈴鹿で3勝すれば地元で500勝達成が実現するんだ”と漠然と考えていた。

2000年という年は、東にとって期待はずれの年だった。1999年、シーズン前半を絶好調で終えた東は、夏休み明けのチェコGPで鹿に激突して以来、成績がふるわず、結局ランキング3位でシーズンを終えた。そして、2000年になっても、その不調を引きずってしまったのである。結局、2000年に表彰台に上がった回数は6回あったが、優勝したのは最終戦のオーストラリアGPだけで、ランキングも前年よりひとつ落として4位になっていた。その分、2001年に関して期待は高まっていた。30歳になろうとしていた東の場合、2001年は正念場だったのである。

2001年4月6〜7日に行われた日本GPの公式予選で、東は4番手のポジションを獲得した。ポールポジションを取ったのはライバルの宇井陽一(デルビ)。東同様にHonda RS125に乗るベテランの上田昇は予選7番手だった。

鈴鹿で500勝を達成するためには、125cc、250cc、500ccの3クラスすべてでHondaライダーが優勝しなくてはならない。500ccクラスではNSR500に乗るバレンティーノ・ロッシに期待が集まっていたし、250ccレースではNSR250に乗る加藤大治郎が優勝する可能性が高かった。Honda首脳陣にとって一番不安だったのが125ccクラスだったのである。金曜日の夜、各チームに配布された『今回鈴鹿で500勝を達成した場合には、全レース終了後に記者会見を行います』というHondaのリリースを見た時、東は息を呑んだ。“今回は僕か上田さんが絶対に勝たなくてはいけないんだ・・・”。そのプレッシャーは計り知れぬほど大きかった。
2001年WGP第1戦日本グランプリ(鈴鹿)
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