Honda Motor Sports WGP 東 雅雄という男
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第三章 Honda500勝に貢献
2001年日本GP
4月8日は快晴だった。18周で競われる125ccレースで、東は1周目を終えた時点で3位につけていた。7台のマシンで繰り広げられるトップ争いのバトル。その中には東の他に上田昇の姿もあった。8周目、マシンの調子が良かった上田がトップに立った。その頃、東は6位。マシンの調子がイマイチだった東は“今回優勝するのは上田さんかな・・・”と他力本願的に125ccクラス優勝の重責を上田に託していた。

15周目、トップを走行していた上田が逆バンクで転倒した。上田の転倒により、東とトップグループとの差は一気に縮まった。しかし、上田が転倒したということは、自分がなんとしてでも勝たなくてはいけない・・・。トップグループの中でHondaライダーは東ひとりだけだった。

東はアプリリアのルーチョ・チェッキネロとデルビの宇井に続いて3番手で最終ラップに突入した。スプーンカーブでチェッキネロをかわして2位に上がった東は、バックストレートでトップの宇井に並び、スリップストリームを使って宇井を抜き去った。そして、そのまま130Rを駆け抜け、シケインに向かった。心臓が喉から飛び出しそうだったが、シケインのブレーキングに自信があった東は、そのまま宇井を抑えてメインストレートに戻ってきたのだった。

トップでチェッカーフラッグを受け、498勝目を勝ち取った東。その後、行われた250ccレースでは加藤大治郎が、そして500ccレースでバレンティーノ・ロッシが優勝したことにより、この日、Hondaは悲願の500勝を鈴鹿で達成することができた。レース終了直後、表彰台の中央で歓喜の雄叫びを上げた東は、この日表彰台に上がった9人のライダーの中で、一番嬉しそうだったのである。
498勝目を勝ち取った東選手
2001年、東は第3戦スペインGPでも優勝した。しかし、この頃からイタリアのアプリリアとデルビ勢の速さが目立つようになっていた。この両メーカーは、ファクトリー体制で臨んでおり、これに対してHondaは、125ccクラスはあくまでもプライベートライダーとチューナー主体のクラスだという考えだった。また、125ccクラスではライダーの低年齢化も目立ってきた。2001年に同クラスに出場したライダーのほぼ半数が10代半ばのライダーとなっていたのである。

東としては、ライダーの低年齢化に関しては別に何とも思っていなかった。実力と年齢は決して一致するものではないので、実力があるのなら若くても全然構わないと考えていた。しかし、翌2002年ぐらいになると、若くて経験のないライダーでも資金のあるライダーに出場チャンスが与えられるという話をよく聞くようになった。ライダーの実力よりお金の占めるウエートの方がはるかに大きいという状況。それが現実だった。
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