2年目の1998年にランキング4位となった東雅雄。翌1999年、東はまさに破竹の勢いで前半戦を終えていた。9戦中5勝という強さでランキング2位につけるエミリオ・アルツアモーラに10ポイント差をつけてシーズンを折り返していたのである。また、この年はリエジョアのチームが“ベネトン・プレイライフ”というスポンサーにも恵まれ、資金的な心配をしないでよいという好条件が揃っていた。
約一ヶ月の夏休みの間、日本に帰国していた東はリラックスしていた。“チャンピオン獲得間違いなしだから”と友人たちに誘われては飲みに出かけていた。そう、東自身、今年は間違いなくチャンピオンを取れるだろうという確信のようなものを持っていたのである。しかし、事態はあらぬ方向に展開していく。ターニングポイントとなったのは第10戦チェコGPでの“鹿との遭遇”だった。
それは8月21日、土曜日朝のフリープラクティスの時のことだった。前日の予選でマシンのセッティングが決まらず苦戦していた東は、土曜日のフリープラクティスで、4,5周走ったのちにセッティングを変えるためピットへ戻ろうとしていた。ブルノ・サーキットには1コーナーを過ぎたところに長さ500mぐらいの登り坂のストレートがある。そこを走っていた東は、コースサイドに佇む野生の鹿を発見した。
「アッ、鹿だ・・・」と思った東は、なんでサーキットに鹿がいるのだろうと一瞬考えた。その瞬間、鹿と目が合ってしまったのである。東とアイコンタクトを取ってしまった鹿は、そのまま一目散にコースに向かって突進してきた。東の方はスローダウンしているとはいえ、170k/hぐらいスピードが出ている。フルブレーキングしたが間に合わなかった・・・。鹿に激突した東は宙を舞ってコース上に叩きつけられた。幸い骨折こそしなかったが、全身打撲となり救急車でドクター・コスタ(グランプリ専属医)の元へ運ばれた。鹿は即死で、東のマシンは三分割になってしまったのである。ドクター・コスタに痛み止めの注射をうってもらって午後の予選に出場した東だったが、痛みのために全身が強張っていた。メカニックに支えられてマシンにまたがり、タンクの上で伏せると首が上がらなくなっていた。
翌日の決勝レースにも東は何とか出場した。途中で痛み止めが切れてしまい、腰痛との戦いとなったチェコGPを、東は必死の思いで終え、12位に入った。結局、その後、東の成績は階段を転げ落ちるように悪くなってしまった。後半戦での最上位はオーストラリアGPでの5位。最終ランキングも3位に落ちていた。ちなみにこの年125cc世界チャンピオンになったのは、一度も優勝することなくポイントを稼いでいったエミリオ・アルツアモーラだった。 |
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1999年のシーズンオフ、翌年250ccクラスへステップアップしないかというオファーもあったが、東はあえて125ccクラスにとどまることを選んだ。もう少しで手にするところだったタイトルをなんとしてでも獲得したかったからである。来年こそは絶対に取れる。1999年末に東はそう確信していた。しかし、その後、125ccクラスを取り巻く状況は、東が考えていたのとは違った方向へ流れていってしまったのである。
(つづく)
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