東 雅雄という男
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第二章 鹿との遭遇
一年目の苦労
東雅雄のもとに、待望の知らせが届いたのは1997年1月末のことだった。その年から世界グランプリ125ccクラスへのフル参戦を計画していた東は、エントリーが受け入れられるかどうかずっとやきもきしていた。エントリーが受け入れられなければグランプリにフル参戦することはできない。東はずっと落ち着かないまま年を越した。

準備を進めなくてはいけなのだが、参戦できるという確証はない。しかし、正式発表を待ってから準備を始めたのでは間に合わない。期待と不安に揺れ動きながら、東は吉報を待っていた。世界グランプリでエントリーが受け入れられない場合、東は1997年も全日本選手権で走ることを考えていた。‘96年全日本チャンピオンの東なら連覇も十分可能である。しかし、こちらの方こそ何の準備もしていなかった。そして、1月末、東はFIM/DORNAが発表したエントリーリストに自分の名前が載っているのをみつけた。その瞬間、東は初めてグランプリへ行けると実感したのだった。
1997年 WGP第2戦 日本GP(鈴鹿)

世界グランプリ・フル参戦1年目、東雅雄はオランダ人で自らもGPライダーだったルーク・ボデリエのチームから125ccクラスに出場することになった。チームの本拠地はアムステルダムから南に80kmほど下ったところにあるハートゲンボッシュという町で、東はそこにアパートを借りて生活を始めた。1年目、東は契約金をもらわなかった。ポイントを獲得したら1ポイントごとにいくらというように賞金はもらっていたが、アパート代以外の生活費はすべて自分で負担しなくてはならなかった。レンタカー代やガソリン代を捻出するため、東は倹約を続けた。テレビや雑誌を見て想像するような派手で豪華なグランプリ・ライダーの生活とは無縁の、地味で堅実な生活だった。

それでも東には、かつて片山敬済のメカニックを務めたこともある周郷弘貴というベテランメカニックと全日本時代にメカニックを務めてくれた若手メカニックの二人がついてくれることになった。しかし、他のチームスタッフとは英語で会話しなくてはならない。東は日本を出る前に一応独学で英語の勉強をしていたが、現地に入ってからは一生懸命外国人スタッフと話をするようにした。また、外国人スタッフ同士が話している会話も、積極的に聞くようにして耳を慣らしていったのである。
1997年 WGP 第7戦 オランダGP

だが、肝心のレースで東は苦戦していた。ヨーロッパのサーキットも初めて走るところばかりだったので、コースを覚えて、マシンのセッティングを出すためには、金曜日と土曜日のフリープラクティスと予選だけではとても時間が足りなかったのである。そんな状況の中でもHonda RS125に乗る東は、1年目の1997年に、日本GPでは4位に入り、その他14戦中10戦でポイントを獲得し、ランキング15位に入った。ランキング15位以内に入れば、翌年のエントリーが保証されるので、東としてはなんとしてでも15位以内に入りたかったのである。
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