翌1998年に関して、東はオリビエ・リエジョアのチームからエントリーした。元GPライダーのベルギー人、リエジョアは苦労人で、ライダーの気持ちの分かる人だった。レースへの取り組みは熱心で、決して妥協を許さない。優勝した時でも、ただ喜ぶのではなく、どうしたらマシンをもっと速くできるかということを追求するタイプの監督で、お金の使い方に関しても堅実だった。チームのホスピタリティなどにお金をかける代わりに、マシンのパーツ代や工作機器にお金をかけるというようなリエジョアの姿勢に東は好感を持っていた。ベルギーのリエージュ(リエジョアという苗字はリエージュに由来している)に移り住み、その後5年間リエジョアのチームに所属することになる東だが、5年間も東がリエジョアと一緒にやっていけたのは、リエジョアのレースに対する姿勢に自分と共通のものを感じ取っていたからだろう。
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1998年、東雅雄は健闘した。シーズンオフからブリヂストンのタイヤテストを担当し、走り込みを続けた東は、開幕戦の日本GP(鈴鹿)で3位に入った。その後、フランスGP、イモラGP、カタル二アGPでも3位に入ったあと、シーズン終盤にフィリップアイランドで行われたオーストラリアGPで待望の初優勝を飾った。それはその年チャンピオンになった坂田和人(アプリリア)とランキング2位になった眞子智実(Honda)、同3位になったマルコ・メランドリ(Honda)、そして同4位となる東が真っ向から対決したレースだった。 |
ラスト2周の段階でトップグループはこの4人を入れて7名のライダーによって形成されていた。その中から東、眞子、メランドリの3人がそのまま団子状態で最終ラップの最終コーナーに突入した。スリップストリームを使い合い、スクリーンに身を埋めて加速していく3台。チェッカーフラッグを受けた瞬間、スリップストリームから抜け出して一番前にいたのが東だったのだ。今でも東はこの時の優勝が“生涯で一番嬉しい優勝”だと語っている。グランプリ初優勝だったという以上に、この時の東はランキング上位のライダーたちと競り合って、近い将来、チャンピオンを獲得できるという確実な手ごたえを感じ取っていたのだろう。
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