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 あいにくの雨にもかかわらず44,000人に及ぶ観衆で膨れ上がった鈴鹿サーキットの観客席は、色とりどりのレインウェアに彩られながら、これまでにない緊張と高揚に包まれていた。新生MotoGPの開幕戦スズカに詰めかけた観衆全員が、今まさに開こうとしている新時代への扉を、固唾を飲んで注視していた。観衆もチームスタッフも、そこにいる全員が、歴史の目撃者になろうとしていた。

 2002年4月7日、午後2時01分44秒。シグナルがブルーに変わり、21台のマシンが弾かれたように第1コーナーを目指した。空高く立ち昇る水煙の中に、幾種類もの様々なエキゾーストノートが渦巻いた。そしてその複雑な和音こそが、新生MotoGPの記念すべきキックオフであることの確かな証だった。

第1コーナーに進入していった3台のRC211Vの後ろ姿を目で追いながら、チームスタッフは小さく溜息をついた。
「いよいよ、始まったな…」
 そこまでの道のりを噛みしめるように、その表情は一様に厳しかった。総立ちになっていたグランドスタンドの観衆がシートに腰をおろす頃、トップ集団が巻き上げる水煙は、猛然とS字を駆け上がろうとしていた。

二日間を通じて横風に悩まされた予選だったが、小振りに仕上げられたRC211Vのカウルは、その影響を最小限に抑えることが出来た。はじめはそのカウルに違和感を訴えたロッシも、そのデザインがもたらす効果に納得していた
好調な計時タイムとは裏腹に、スタッフは表に出せぬ緊張感に包まれていたのも事実だった。もちろん致命的なトラブルとなる可能性は低かったが、開幕戦だけに予測できぬ事態が起こることも充分に考えられる状態だったのは確かだ
ピットに準備されたスペアエンジンも、ギリギリのものでしかなかった。さらに、ロッシの転倒によってそのローテーションに大きな変更を余儀なくされ、最悪の場合は伊藤のエンジンを都合することまで視野に入れられる状態だった
最終予選直前に、レプソルのピット内で2台のマシンがほとんど全バラの状態であることなど、誰が想像出来ただろうか。メカニック達の全開の作業によって予選開始寸前にマシンのセットアップが終わり、そしてシャッターが開けられた

 1回目の予選でロッシがトップタイムを、そして宇川が3番手のタイムを記録し、さらに最高速計測では他を10km/h以上も引き離す数字を叩き出し、RC211Vの存在は絶対的なものにさえ映っていた。フリープラクティス2回、予選2回の計4回のタイム計測を通じて、ロッシとRC211Vはその3回でトップタイムをマーク。最高速ランキングでも他を圧倒し、そしてロッシとRC211Vはポールポジションを獲得した。端から見れば、RC211Vの仕上がりは上々…その前評判に疑いの余地はなかった。

 だが、順調に好タイムを叩き出していくロッシとRC211Vに対する評価とは裏腹に、ピットの雰囲気は決して安閑としたものではなかった。スズカ入りした段階で、開発スタッフの胸にはいまだ取り払う事の出来ない不安がしまい込まれていた。タイムにあらわれるRC211Vの好調ぶりからは想像も出来ない問題がピットエリアに潜んでいることは、外部にはまったく知られていなかった。ファンもプレスも、RC211Vの仕上がりに疑問をはさむものはいなかった。それがまた、開発スタッフにはプレッシャーだった。

 2002年に入っても、RC211Vの耐用距離は、設定目標を完全にクリアするには至っていなかった。台上またはテスト走行でレースを想定した距離を消化はしていたが、実戦の場には何が起こるかわからない不確定要素がいくつも考えられた。フリープラクティス2回、予選2回、そして決勝レースの、トータルの走行距離を不安なく走り抜くだけの充分な信頼性…これは、実戦を経験してみなければわからない、未知の領域だった。

 そして、開幕のスズカに持ち込まれたエンジンの個数にも、限界があった。限られた個数のエンジンをなんとかやりくりし、予選を戦い抜いてきた…というのか現実だった。さらに、フリープラクティス中のロッシの転倒で、砂などの異物を吸い込んだ可能性のあるエンジンは、急遽その個数から除外せざるをえなかった。エンジンの厳しいやりくりは、まさにギリギリの状態だった。ピット裏で、転倒したエンジンをすべてバラし、なんとか使える状態に組み上げる作業が続けられていることなど、外部は知るよしもなかった。

 さらに、燃費の問題も完全にはクリアされていなかった。燃料噴射のセッティング次第では、レース中に24リットルのタンク容量を使い切ってしまうことも考えられた。そのために、RC211Vが内に秘める圧倒的なパワーのすべてを解放することがまだ許されないことも、開発スタッフには確実なストレスとなっていた。

 4月6日、土曜日。午前中のフリープラクティスを終えたレプソル2台のピットのシャッターが閉められると同時に、あわただしくすべての外装パーツが取り外され、2台のマシンはエンジンの乗せ換え作業に入った。午後の最終予選まで、残された時間は2時間足らず。せわしく動き回るメカニックと、響き渡る工具の音。固く閉じられたシャッターの中で、そんな緊迫の作業が進められていることなど、誰にも想像できるはずはなかった。

 2時間後、最終予選の開始を告げるホーンの音がピットレーンに鳴り響いた。勢い良くシャッターが開けられたレプソルのピットの中には、何事も無かったかのように、全ての作業を終えて艶やかに磨き上げられた2台のRC211Vがあった。群がるプレスがシャッターを切り続けている。まさかその2台が、いまエンジンを積み替えたばかりの状態にあることなど、想像出来るはずもなかった。

 2台のRC211Vを最終予選のコース上に押し出したメカニックの目は、自らの''Good Job''に輝いていた。最終予選直前の、2台同時のエンジン積み替え…。その追い込まれた作業を完遂したことは、メカニックたちに実戦ならではの限りない自信を植え付けることとなった。レースは、確実に一戦一戦、マシンと人を鍛え上げる。そしてコース上では、MotoGP開幕戦のホットな最終予選が始まった。

 予選前半は、小康状態が続いていた。前日のタイムを大きく上回るライダーはなく、2分05秒台の平凡なタイムが記録されるだけだった。しかし、残り時間20分となる頃から、コース上は一気に熱気を帯びてきた。ヤマハの4ストロークYZR-M1を駆るカルロス・チェカが2分04秒945の最速タイムをマーク。2ストロークNSR500のロリス・カピロッシが2分04秒481。そしてもう1台のYZR-M1を駆るマックス・ビアッジが2分04秒829と白熱。

RC211Vで迎える初レースでありながら、メカニック達の手際はすでに何シーズンをともにしたマシンであるかのように、スムーズなものだった。それは、モノと人と技の高度な絡み合いによってのみ実現できる世界でもあった

 そして残り2分を切ったところでカピロッシが2分04秒409をマークし、一気にトップに躍り出るとともに、伊藤が2分04秒435でこれに続き、最終予選はそのまま終了するかに見えた。しかし、チェッカーが出されたコース上には、ロッシがいた。最終予選の最終ラップ。コース上の邪魔なライダーが減ったことを確認したロッシは、RC211Vに猛然とムチを入れた。

 まさに「スイッチが入った」という表現が正しかった。それまでとはまったく違う挙動を見せるRC211Vは、次々と区間タイムを更新して未知の領域に突入していった。そして、ロッシがコントロールラインを通り過ぎた瞬間、すべては彼の手の中にあった。

 2分04秒226。ロッシのポールタイムは、そのまま改修なった鈴鹿サーキットのレコードタイムとなった。

目標タイムはズバリ2分03秒台だったが、2日連続の強風はそのチャレンジを許さなかった。最終予選のロッシのコースどりを見る限り、まだまだマージンを残していたのも事実。天才のポテンシャルは100%発揮されたわけではない

 緊張のオープニングラップを終えたトップ集団が、相次いでシケインに突入してくる。はじめて見るMotoGP開幕戦のレースに、シケインから最終コーナーの観客席は早くも総立ちとなっている。

 トップでコントロールラインを通過したのは、スズキGSV-Rを駆る全日本スーパーバイクのチャンピオン梁 明。そして、そのチャンピオンに食らいついて2番手につけるのが、Hondaウィングカラーに塗られた、もう1台のRC211Vを駆る伊藤真一だった。

 ワイルドカードで開幕戦に出場した伊藤の最大の役割は、彼自身の豊富なデータ量をもって、RC211Vを実際のレースマシン全体の中で評価/検証することだった。レースの第一線から退いて久しい伊藤にとって、順位や結果は二の次。縁の下の重要な役割がそのすべてだった。

 しかしその伊藤が、ロッシとカピロッシの現役トップライダーに続いて予選3番手をゲットしたことは、RC211Vの開発スタッフに大きな喜びをもたらしていた。もちろん伊藤のファイティングスピリットと、衰えることのないライディングセンスが輝いたのは言うまでもない。だがそれに加え、RC211Vの素性の良さをあらためて確認できたことは、大きな収穫でもあった。

鈴鹿でのテストの中心的役割を果たしてきた伊藤にとって、このレースには様々な思いと決意が込められていた。
縁の下の存在であることはもちろん、彼のライダーとしての高い素質をあらためて見せつける活躍でもあった

 予選でフロントタイヤの選択ミスを犯した宇川は、11番手のスタートからレースを追いかけていた。ウェット路面のレースでは、水煙に包まれる位置からのスタートは大きなハンディとなる。しかし宇川は4周目には7番手に浮上し、ジワジワと先頭グループへの接近を開始していた。周囲には走り方の異なる2ストローク勢がまとわりついていた。リズムの違いに苦慮しながら、宇川は自分のレースを組み立てようとしていた。

 伊藤はピタリと梁の後ろにつけて周回を重ねていた。初めて走るスズカのウェット路面を確実につかみはじめたロッシがスルスルと順位を上げてくる。4周目、梁、伊藤、ロッシの3人がレースをリードし、MotoGP開幕戦は一気に熱気をはらんできた。

 サインエリアとピットにいるスタッフは、ぴくりとも動かずモニターの映像をにらみつけていた。RC211Vが経験するはじめてのグランプリ。それも、一切データのない雨のレース。ライダー、マシン、コース、そしてコンディション、すべてがはじめてづくしの組み合わせだった。

我慢のレースを続けた宇川は、思い通りのレースプランを展開することが出来なかった。しかし彼の闘志は、見事に南アフリカGPで花開き、ロッシを抑えて優勝を手にすることとなる。それはまさに「宇川、健在」を思わせる活躍だった

 ロッシのレース展開は、まさに周到なものだった。雨の経験も豊富でスズカを知り尽くした梁の背後でこれを観察し続け、完全なマージンを見越せる場所でオーバーテイクすることが一番安全で確実な方法であることを、若き世界チャンピオンは知っていた。

 15周目、明らかにシケインでの突っ込みが優位にあることを確認していたロッシは、一気に梁をかわしてトップに立つと、なんのためらいもなくスロットルをワイドオープンしてみせた。残り6周。必死に食らいつく梁を尻目に、ロッシはその差を広げにかかった。そして最終ラップ、精神的にも肉体的にも厳しい雨の21ラップを駆け抜けたロッシは、なんとレース中の最速ラップをマークして、ウィニングチェッカーを受けた。

 それはまさに、前項の中で述べられている「疲れない、開けやすい、バトルが負担にならない、最終ラップまでライダーの力を存分に発揮出来るマシン。最終ラップまでライダーが''やる気''を保つことが出来て、それを発揮出来るマシンでなくてはならない」…を実証する結果でもあった。

 現役のグランプリトップライダーに混じって4位を得た伊藤の働きも顕著だった。スタートの出遅れから2ストローク勢とのバトルに終始し、自らのペースを組み立てられないまま転倒してしまった宇川のレースは悔やまれたが、彼の目から輝きが失われることはなかった。

 チーム監督は、サインエリアで大柄な外人スタッフの手荒い祝福にもみくちゃにされていた。ほとばしる喜びが彼を包んでいたが、しかし真っ赤な目をうつむきがちに、彼は静かに握手でそれに応えていた。

その瞬間、シケインの観客席から絶叫に似た歓声が上がるほどの、絶妙かつ思い切りの良いオーバーテイクだった。速さと強さ、そして冷静さとを併せ持つロッシの面目躍如といったレース運びに、観衆が酔いしれた瞬間だった
ロッシの、予選での二度の転倒は、想像以上にチーム監督をハラハラさせていた。どんなにタイムを出していようと、どんなにレースをリードしていようと、チェッカーまで彼らの心休まる瞬間はない

 サインエリアで腕を組んだまま、50分に及ぶレースを微動だにせず見守り続けたプロジェクトリーダーは、小さく拳を握りしめて、唇を噛みしめながらピットに歩み始めた。そのピットでは、多くのメンバーが肩を抱き合い、歓喜の雄叫びをあげていた。彼はゆっくりと、その輪に加わった。

 総立ちの観衆の限りない拍手とともにウィニングラップを終えたロッシが、コントロールエリアに戻ってきた。ヘルメットを脱いだロッシの表情は、驚くほど厳しいものだった。そこには、新たな時代の先頭を走り始めた若きチャンピオンの、それまでにない決意が見てとれるようだった。

「雨に助けられた部分はあります。回転数の点でも、燃費の点でも。しかしRC211Vはまだ50%。これから15戦のシーズンに向けてやることは山ほどある。解決しなくてはいけない問題が、目の前に積み上げられている」

 まったく新しいV型5気筒エンジンの採用。そしてまた、まったく新設計となる車体まわりとリアのユニットプロリンクサスペンション。奇異にも映るほどコンパクトなカウリングの構成。その他にも数え上げればキリがない、新機軸…。RC211Vに込められた技術的チャレンジの大きさはまた、必然的に超えなければならないハードルの数と高さを増やしているのも確かだった。

 勝利の喜びを噛みしめる間もなく、プロジェクトリーダーはそれまでにない毅然とした眼差しで、コントロールラインのチェッカーランプを見上げた。

 2002年ロードレース世界選手権グランプリ全16戦。熱く長い戦いは、いま始まったばかりだった。

レースの結果とは別に、今後やらなければならないことが脳裏を駆けめぐる。シーズンは始まったばかりだ。長い長い戦いは、まさにこれから本格化しようとしている
ヒゲをたくわえ、昨年までと大きくイメージを変えたロッシ。彼の中で何かが大きく変化し始めているのも確かなようだ。RC211Vとの出会いが、彼のレース人生にどんな成果を残すことになるのか。天才もまた新たな時代へと歩み出している
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