鈴鹿8時間耐久ロードレース

失敗から生まれる勝利。Part1 : 8耐の本質と10回の敗北

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Part1 : 8耐の本質と10回の敗北

失敗の記録──1986年以前

Hondaは、これまで32回行われた8耐のうち10回のレースで優勝を逃すという失敗を記録してきた。Hondaにとっての8耐は敗北からスタートしている。

1978年

結果
リタイア : クリスチャン・レオン/ジャン・クロード・シュマラン(RCB)
リタイア : スタン・ウッズ/チャーリー・ウィリアムズ(RCB)
原因 : 耐久レースの常識を覆すスプリントペースのレースとなり、この想定外の展開に24時間耐久をベースにしたHondaの戦い方が通用しなかった。このため、ウッズ/ウィリアムズ組が焦って転倒を犯し、No.1チームであるレオン/シュマラン組のマシンは予想以上の負荷にエンジンが壊れた。
対応 : 新型マシンRS1000(RCB482)とスプリントライダーを準備
成果 : 翌79年に前年の優勝周回数を更新して優勝

1978年
1980年

結果
3位 : マーク・フォンタン/エルブ・モアノー(RS1000)
5位 : 木山賢悟/阿部孝夫(CB900)
リタイア : ロバート・ピエトリ/ジェフ・ハーネイ(RS1000)
原因 : ライダー、マシンともに、ライバルのポテンシャルが上回っていた。
対応 : マシンと体制面の強化。
成果 : 翌81〜82年に2連勝(82年は大雨で研究所チームが優勝)。

1983年

結果
3位 : フレッド・マーケル/ジョン・ベトゥンコート(RS850R)
リタイア : レイモン・ロッシュ/ギ・バルタン(RS850R)
リタイア : 阿部孝夫/徳野政樹(RS850R)
原因 : 翌84年から実施された750ccTT-F1の布石として、最後の1000ccレースに対して新型V4マシンRS850Rで参戦。
対応 : 750ccバージョン=RS750R〜RVFの完成
成果 : 84〜86年に3連勝

1983年

84年にTT-F1レギュレーションが施行されると同時に、耐久選手権は世界選手権格式になり、8耐も日本で開催される唯一の世界選手権となった。さらに日本における2輪ブームにより、この頃から8耐に対する内外の注目度は大きく高まっていった。

特に、8耐優勝を最優先に開発したRVFをHondaが投入した85年は、ヤマハがワークス参戦を開始。Hondaの大型新人だったワイン・ガードナー/徳野政樹と、ヤマハが満を持して送り込んだYZFに乗るケニー・ロバーツ/平忠彦の一騎打ち〜ラスト30分の逆転劇という結果になり、8耐の人気は爆発的に上昇。

1985年

これらの状況をふまえ、Hondaは8耐を世界GP(現MotoGP)と並ぶ最重要レースとしてとらえ、こん身の力を注ぐようになった。そのために、マシン性能やライダーの技能レベルはいうまでもなく、ピットワーク作業の効率化・標準化をはじめとする総合的なチーム戦略で、8耐の勝利を狙うスタイルを導入していく。

また、87年には10年ぶりの4輪F1(初のレギュラー開催)、20年ぶりの2輪世界GPが、ともに鈴鹿で開催されることとなり、サーキット全体が大きく改修された。これによって、それまでピットとピットレーンを隔てていたコンクリートウオールも撤去され、ピットレーンに対してダイレクトにアクセスできるピット環境が実現された。

8耐におけるピットのあり方も大きく変化し、さまざまな用具や設備がところせましと配置されたその空間は、小さな工場にも似た様相を呈するようになる。それは、8耐が国内4メーカー(87年からカワサキもワークス参戦)の総力戦の場となった証だったといってもいい──そしてHondaは、この大きな意義を与えられるようになった時代に、唯一の2連敗を喫する。