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inside HPD〜語り継がれるアメリカン・ホンダ・レーシング・スピリット
vol.2堀内大資(Daisuke Horiuchi)Hondaパフォーマンス・ディベロップメント(HPD)チーフ・エンジニア
「IRL用エンジンの開発〜イルモアとのコラボレーション」

CARTがエンジン・マニュファクチュアラーとの約束を守らずに、2003年から新エンジン採用を決定したのは、2001年10月のことでした。当時、2002年用のターボ・エンジンを開発しながら、新設計の3.5リッターV8自然吸気エンジンを開発することは不可能であり、それ以上にCARTを信頼できなくなったことで、2002年シーズンをもってCARTからの撤退が決まったのです。

しかし、様々な議論を重ねた末、5年間ツインリンクもてぎに来ていただいたファンの皆さんのことを考えると、これで終わるのは申し訳ない。アメリカでのレース活動を、もっと続けるべきだということになりました。それで当時オーバルだけでレースを行っていたIRL(インディ・レーシング・リーグ)への参戦が急きょ決定したのですが、決まったタイミングがあまりにも遅く、1年ほどしか期間がありませんでした。

2001年10月12日に撤退発表。当時のHPD社長トム・エリオット(右)とジェネラル・マネージャーのロバート・クラーク 2001年10月12日に撤退発表。当時のHPD社長トム・エリオット(右)とジェネラル・マネージャーのロバート・クラーク

そのような状況の中、前回もお話ししましたが、我々には現地化という重要なテーマがあり、需要のあるところで生産するというのがHondaのポリシーとしてあります。1979年に日系の自動車メーカーとして、真っ先にアメリカへ工場を作った会社ですから。アメリカのレースを進めるにあたって、この際現地でアメリカ人と一緒にレース・エンジンを作ろう! ということになったのです。

1979年に初めてアメリカで生産されたHonda、レース専用モデルのCR250R 1979年に初めてアメリカで生産されたHonda、レース専用モデルのCR250R

ところが、2003年からIRLへ参戦するというのにたった1年しかないわけで、HPDには開発するための設備が無く、人もいない。ちょうどその頃です、レース・エンジン・メーカーの「イルモア・エンジニアリング」からオファーがあったのは。2000年まで同じカテゴリーで戦っていた相手だったので、最初は本当にびっくりしましたが、彼らはそれまでのクライアントを失って、新たなパートナーを探していたのでした。

CART最後のシーズンで、日本の研究所はまだエンジン開発を続けていましたし、他のレースでも忙しかったために、HPDが独力でエンジン開発できる体制になるまでは、イルモアさんに最初のエンジンを頼もうということになりました。それで、私が毎月のようにイルモアさんのイギリスの研究施設へ通うようになり、開発計画の段階から一緒になってエンジンを仕上げることになったのです。

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