Honda Racing to TOP
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 驚くべきデータがある。シリーズ開始から2002年までIRLで行なわれた71レースのうち、27レースが1秒以内の僅差で決着が付いており、2秒以内にまでその範囲をひろげるとその数は実に41レースに増える。2002年のシリーズだけとってみても15レース中8レースがトップと2位の差が1秒以下であった。その8レース中4レースの1位と2位の差は何と500分の1秒という凄さである。
 そしてその僅差によるフィニッシュは1位と2位の2台だけではなく、多くの場合、時速200マイル(約362キロ)以上というスピードで競い合う4台から5台というトップ集団によって繰り広げられるのだからたまらない。程なく、エキサイティングなIRLのレースは無名のレーサーたちを有名にしていき、ファンもスポンサーもつかむことになるという好循環を起こし始めた。
 ファン同様、アメリカのレースにかかわっている広告主、自動車メーカーも次から次へと雪崩をうったようにCARTを離れ、IRLに参加し始める。IRLがスタートしながら、数年はCARTを支持していた彼らにとっても、インディ500の魅力はあまりにも大きすぎたのである。
 レースファンのインディ500に対する人気と注目度、メディア露出度は、CARTの1シーズン分を優に超える高さであった。当然のようにCARTに属していたチームやドライバーもスポンサーの意向を受けてIRLへと移ってきた。IRLに移ることができないレーサーたちも、何とかしてインディ500にだけは出たがった。CART側もチームやドライバーの願いを無視できなくなり、彼らがインディ500に参加できるよう、2000年からインディ500の開催される5月からレースのスケジュールを外さざるを得なくなっていった。

 そして2001年にはCARTのみならず全米のレース界で、もっとも有名かつ強い影響を持つチーム・オーナーのロジャー・ペンスキーがついにインディ500に参加、ペンスキー・チームのエリオ・カストロネベズがレースに勝つ。このことはIRL側の最終的な勝利を印象づける出来事であった。
 その年、ペンスキー・チームはCARTでも栄光を獲得した。もうひとりのドライバー、ジル・ド・フェランがチャンピオンに輝いたのだ。そしてシーズン終了後、ペンスキー・チームは、2002年からIRLへ電撃移籍することを発表。エリオ・カストロネベズは2002年もインディ500に勝ち、2連覇という偉業を達成する。
 一方CARTの方の衰退ぶりは劇的だった。かつてパドックはHondaやトヨタ、メルセデス、シボレー、そしてフォードのエンジンを積んだレーシングマシンが所狭しと並び、さながらエンジン戦争の様相を呈していた。しかしいまやCARTには望むと望まざるとに限らず、フォード・コスワースのたった1種類のエンジンしかなく、それもシリーズを残すためにようやく手に入れたものである。

 エンジン・メーカー間の戦いもIRLに所を移した。2003年には、名称もIRLからインディカー・シリーズに改められた。
 CARTの方の状況は悪化する一方で、TV局との契約上、毎レース18台以上参加が守れない場合は膨大な違約金を払わなければならないのだが、18台を確保するのがやっとというのが現状である。
 このことを象徴するかのように、2002年シーズン終了後、マイケル・アンドレッティがCARTの強豪、チーム・グリーンを買収、スター・ドライバーのダリオ・フランキッティとトニー・カナーンともどもインディカー・シリーズへ連れていってしまった。
 ほぼ全米中の有力チームと人気ドライバーが参加するインディカー・シリーズ。そのシリーズには唯一海外で行なわれるレースも含まれている。それが日本で開催される「ツインリンクもてぎ」でのレースで、インディ500の直前であることもあって、すべてのチームとドライバーが非常に大切なレースと位置づけて気合を入れている。
 インディカー・シリーズの悩みは、毎レース、31台とも32台とも予想される参加マシンのために十分なパドックスペースをどうやって確保するかというロジスティックな問題だという。何はともあれ、インディカー・シリーズはこれからもますます注目を集めるレースになるだろう。(終り)
(上記数値、サプライヤー名、写真等は2003年時のもの)
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