初代開発者・伊藤氏に聞く

操る喜び、人中心の源流へ〈前編〉

初代シビックが発売されたのは、ちょうど50年前の1972年。以来、日本はもとより世界中の人々を魅了し続けてきた。Honda四輪ブランドの象徴、シビックに受け継がれてきた開発思想とはどのようなものなのか。初代から6代目までの開発に携わった伊藤博之へのインタビューを通じて、それらを鮮明にしていきたい。

伊藤博之氏

開発の原点は、

絶対値の追求。

1960年代後半、すでにHondaは四輪事業に進出していたが販売業績は思わしくなかった。初代シビックの開発は、そんな厳しい状況の中でスタートした。入社3年目の若手技術者だった伊藤博之は、このHondaの未来を担う重要なプロジェクトのメンバーに抜擢された。

当時の心境を尋ねると「どこにもない、まったく新しいクルマづくりに挑みたいと思った。Hondaらしい、走りの楽しさを実感できるクルマ。軽量でコンパクトなスタイルと、キビキビと走る操作性。それらは絶対に必要な要素だと、メンバー全員が共有していた」と強調する。

プロジェクト内で想定していた、仮想ライバル車はあったのだろうか。「そんなことはまったく考えなかった。我々が知恵を絞ったのは、いまHondaはどんなクルマをつくるべきなのか。その思いを徹底的に追い求めながら、全力でシビックの開発に取り組んでいった」。

つまり他車との比較ではなく、Hondaならではのオリジナリティーを持つクルマを生み出すために、その絶対値を導き出していったのだ。広い室内、安定性を生み出すロングホイールベース、取り回しのよい全長。その結果、後部のトランクスペースを大胆に削った、初代シビックの特徴的な台形デザインが生み出された。こうした絶対値の追求こそが、シビック開発の原点だった。

シビックの

進化を支えるMM思想。

もう一つ、Hondaが大切にしてきた考え方がある。MM思想だ。これは“マンマキシマム・メカミニマム”の略語で、機械部分は最小に抑え、人間のためのスペースを最大限広くするという意味を持つ。歴代シビックの快適な車室空間は、すべてこのMM思想に基づいて設計されたものだ。「MM思想を言葉として初めて世の中に発信したのは、3代目ワンダーシビックのとき。しかし、この考え方は私が携わったシビックだけではなく、その後のシビック、さらには全Honda車にも通奏低音のようにしっかりと響き渡っている。それほどこのMM思想は、重要なものだった」。

新車開発にとっては、マンパワーも大きな推進力となる。そうしたメンバー選びに関して聞いてみた。「最初は技術者中心だったが、80年代の後半から営業や宣伝担当も加えた様々な人材をフレキシブルに集められるようになった。それが新車開発の最大の強みとなった」。つまり得意分野を持った様々な人間が集まり、各自の意見をぶつけ合い、そこから魅力的なクルマを開発していく体制が社内に整えられたのだ。伊藤は「人間集団=チームワークの中からしか、いいクルマは生まれない」とも付け加えた。ワールドベーシックカーへと成長していくシビック。その原動力は、個性豊かな開発メンバーたちの化学反応から生まれたものに違いない。

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