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第8章「記録」2000年P1

名門ペンスキーの100勝目と5年連続のタイトル
CART50勝の金字塔と世界最高速度記録
 
ペンスキー100勝
ホンダ・エンジンとともにスタートした2000年。ペンスキーは2年ぶりに優勝し、
第5戦ナザレスで待望の100勝目を記録

過去最高の14勝と3度目の3冠達成という成績を残した1999年のホンダだったが、4年間苦楽をともにし、チャンピオンを獲得してきたチップ・ガナッシ・レーシングがトヨタへエンジンを変更。さらには2000年からホンダ・ドライバーとなるはずだったグレッグ・ムーアが事故死するという二つの衝撃がホンダを襲う。ムーアと契約していたチーム・ペンスキーにとっても、起死回生を狙ってさあこれからという時に襲った突然の悲劇だった。

アメリカのレーシング・チームの中で、最も成功を収めてきたチーム・ペンスキー。まだCARTが創設される以前からチャンピオンシップ・シリーズを戦い、9回もタイトルを獲得してきた名門中の名門チームだが、それまでの数年は極度の不振に喘いでいた。史上最高となる100勝目にあと1勝まで迫りながら、1997年以来まるまる2年間も勝ち星に恵まれないという状況が続いていたのである。

このような現状を打破するべく、オーナーのロジャー・ペンスキーをはじめとする首脳陣はチームの大幅な刷新を敢行。社長には若手ながら才能溢れるティム・シンドリックを起用し、ドライバーはベテランの域に達していたジル・ド・フェランと、まさに伸び盛りだった若手のホープ、グレッグ・ムーアと契約する。エンジンはホンダ、シャシーも独自開発を止めてレイナードにし、タイヤも撤退したグッドイヤーに代わってファイアストンを採用するなど、完全なチャンピオン・パッケージとなった。

「ティム(シンドリック)は以前レイホールにいたので、うちのことを良く知っていました。それにジル(ド・フェラン)やグレッグ(ムーア)がロジャー(ペンスキー)に、『勝つためにはホンダを選ぶしかない』って何度も言ってたみたいで、交渉はスムーズに行きましたね。実は93年に一度『一緒にやりませんか』と話しに行ってたんだけど、その時は実現しなかった。こうして一緒にやれるようになったのはとてもうれしいし、誇りにも思ったよね。長年の夢がかなったというか、ロジャーも当時のことを覚えていて『やっと一緒にできるね』と言ってくれた」と朝香はペンスキーとの交渉の経緯を振り返る。「最後、オーストラリアで全部決まったので、決勝が終わったあとのうちのパーティに、もうグレッグは来てましたよ。『来年は勝ちまくろう』って話していただけに、あの事故はほんとうに残念だった」

最終戦でムーアが帰らぬ人となってしまったことにより、チームは代わりに参戦3年目となるエリオ・カストロネベスを起用する。ペンスキー以外にも、この年は新たにF1出身の中野信治がウォーカー・レーシングから参戦。チーム・クール・グリーンのポール・トレイシーとダリオ・フランキッティは変わらず、ホンダ陣営は前年の7台体制から5台体制という布陣になった。


 

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フッタ
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