CART WORLDHonda Racing TOP


第8章「記録」2000年P2

ペンスキー、ポール・トゥ・ウィン
表彰台でホンダ50勝獲得に喜ぶHPD社長のトム・エリオット(右端)と、
HPD所長のロバート・クラーク

迎えた開幕戦のホームステッド、1.5マイル・オーバルでド・フェランは早速ポール・ポジションを獲得。翌第2戦のロング・ビーチでもポールに輝くなど、常勝パッケージを手に入れたペンスキーはあっという間にかつての速さを取り戻してきた。もはや100勝目も時間の問題と見られていた中、第5戦のナザレスでついにド・フェランが優勝。偶然にもペンスキーの地元となるペンシルバニアでの勝利であり、待望の勝利に全員が歓喜した。普段は表彰台に現れないオーナーのペンスキーも、この時ばかりは特大のシャンペンを自ら振り撒く。ド・フェランにとっても、オーバルでの記念すべき初優勝だった

それからというもの、ペンスキーの快進撃は留まることなく、第7戦のデトロイトではカストロネベスが念願の初優勝を獲得。第8戦ポートランドではカストロネベスがポールポジションでド・フェランが2位とペンスキーがフロントローを独占し、レースはド・フェランが2勝目を挙げる。このようにロードコースで圧倒的な強さを発揮したペンスキーは、ホンダの地元とも言うべき第13戦のミド‐オハイオでも大活躍を見せることになった。

決勝前のウォームアップ以外、予選を含むすべてのセッションでワンツーを獲得し、シーズン2度目のフロントロー確保したペンスキー。レースもカストロネベスとド・フェランによるワンツーが終始続き、そのままゴールして完全制覇。カストロネベスが2勝目を挙げ、ホンダにCART50勝目をもたらしたのだ。「シーズンのはじめは今年50勝になるなんてまったく知りませんでした。ポートランドでジルが49勝目だっていうんで、その時に気がついたのですが、ホンダの工場が近くにあるこのミド‐オハイオで獲れたのはほんとうにうれしかった」と朝香はその喜びを隠せない。

ペンスキーでその才能が開花したカストロネベスは、第16戦ラグナ・セカでポール・トゥ・ウインを決め、この年いっきに3勝を挙げる。その勝ち星に並んだのはチーム・グリーンのトレイシーで、第2戦のロング・ビーチでシーズンの初優勝を記録したあと、第14戦のロード・アメリカ、第15戦のバンクーバーと2連勝を達成した。ロード・アメリカはスタート後のマシントラブルで最後尾に転落し、そこからの大逆転。バンクーバーは同じカナダの後輩、ムーアの地元であり、トレイシーの母国優勝にバンクーバーの街が揺れた。

20世紀最後の戦いとなる最終戦、ド・フェランは予選で1周平均241.428マイル(388.457キロ)の世界最高速度記録を達成。注目のチャンピオンシップは、26台中6台しか完走できないというサバイバル・レースの中で、ド・フェランが粘り強く3位に入ってチャンピオンを決める。参戦6年目にして勝ち取ったタイトルに、ド・フェランは歓喜の涙を流した。「この年、うれしかったのはジルのチャンピオンでしたね。彼は96年からずうっとうちのエンジンのテストを担当してくれていたんですが、あと少しのところで優勝を逃すような事が多かった。研究所の連中も大喜びでしたよ。また、この最高速度記録も忘れられないですね。40インチのターボのブースト圧はこの年いっぱいで、歴代のエンジンの中でも最強でしたから」

見事5年連続のドライバーズ・チャンピオン獲得となったホンダだったが、肝心のマニュファクチャラーズ・タイトルは、8勝したホンダが優勝回数で勝っていたものの、倍の体制(10台〜11台)で臨んだ7勝のフォードに奪われてしまう。「クリーブランドで色んなトラブルが発生して、全滅したのはショックだった。ここで22ポイント差がついたのが、最後まで響いたね。マニュファクチャラーズ・タイトルを獲れなかったという意味じゃ0点だけど、7年という短期間で53勝を挙げることができたのは最大の喜びです。それに、この年はペンスキーに100勝目もプレゼントできたし、彼らが復活する手助けができたというのが、我々としてはうれしかった。ロジャーをはじめ、みんながうちとやって良かったと言ってくれましたよ。我々を薦めてくれたグレッグも、きっと喜んでくれたんじゃないでしょうか」


ジル・ド・フェラン、シリーズ・チャンピオン
アメリカのレース界で最も成功しているペンスキーにとって、
記念すべき100勝目と10回目のナショナル・チャンピオンはホンダとともに達成された。

 

2000 ドライバー・ラインナップへ 第7章 「衝撃」

フッタ
ホームへ 検索へ お客様窓口へ ご意見・ご感想へ マップへ ホットニュースへ ホームへ