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第6章 「奪回」  1998年 P1

1996年に続く2度目の3冠達成
ホンダ50周年の週末にタイトル奪回を決める
 
モテギ、スタート直後

日本初の本格オーバル、ツインリンクもてぎで行われた第1回のCART。 
ホンダにとって
初の凱旋レースとなったが、3位表彰台に終る

2年連続のドライバーズ・チャンピオンを獲得し、ランキングのトップ3を独占したホンダだが、肝心のマニュファクチャラーズ・タイトルを逃がしてしまった1997年。この年のエンジンであるHRRは、1995年から1996年の約2年に渡って使用されてきたHRHエンジンの後継機だったものの、わずか1年で姿を消すことになる。タイトルを取り戻すべく、新たに登場したのがHRKであり、それまでのHRRに比べて約10キロもの軽量化を達成。サイズもぐっとコンパクトになって、運動性能を向上させることに成功した。

大規模なエンジン変更を敢行したホンダは、同様にドライバーも6人中半分が新しくなり、ポール・トレイシー、ダリオ・フランキッティ、トニー・カナーンの3人が加入する。「ダリオのことはずうっと注目しており、前の年で契約が切れるというのが解っていたので、グリーンと一緒に早くからアプローチしていました。ポールはアンドレ(リベイロ)がうちに『来年はペンスキーに行くことになった』と挨拶に来てくれた時にピンと来て、すぐにグリーンに電話し、ポールとコンタクトを獲るように言いました。そしたらまだ誰とも話す前で、すんなりと契約できましたね」と当時を振り返る朝香。

朝香の話にもあったように、ホンダに初優勝をもたらしたアンドレ・リベイロは移籍を決め、名門チームのペンスキーへ。結果的に、トレイシーと入れ替わる形となった。「アンドレはホンダとともに歩んでくれたドライバーで、お互いが初優勝だっただけに忘れることができません。しかし彼の、行きたいという気持ちを誰も引き止めることはできない」。リベイロのいなくなったタスマン・モータースポーツには、同チームでインディ・ライツのチャンピオンだったカナーンがステップ・アップする。

参戦5年目となるこの年、ホンダにはもうひとつ重要なテーマがあった。それはホンダが日本に作った初めての本格オーバル・コース、ツインリンクもてぎで行われる日本初のCARTで優勝することだった。「日本で初めてオーバルのレースを見てもらうってのは、ほんとうれしかったですね。でも準備が大変で、いろいろなところに時間を取られてしまった。正直プレッシャーもかなりあって、こんなことになるんだったら日本でやらなければよかったかもしれない……、なんてことも思いましたよ」


 

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フッタ
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