3年目も若手を中心とし、6人体制に 全員の勝利に対する執念が炸裂 | 参戦3年目を迎えた1996年シーズン、ホンダは初優勝を獲得することができた前年の経験をもとに、またも若手のドライバーが所属する4チームと契約を結んだ。ドライバーは全部で6人。2年目となるタスマン・モータースポーツにはホンダとともに初優勝を得たアンドレ・リベイロのほかに、メキシコ人のアドリアン・フェルナンデスが加わり、コンプテック・レーシングは引き続きアメリカ人のパーカー・ジョンストンを起用。 ホンダにとって初めてのチームとなるチップ・ガナッシ・レーシングは、アメリカ人のジミー・バッサーとイタリア人ルーキーのアレックス・ザナルディがコンビを組む。また、伝説のレーシングカー"シャパラル"で一世を風靡したジム・ホール率いるホール・レーシングには、ブラジル人のジル・ド・フェランといった具合に様々な国籍のドライバー達が揃う。この中で優勝を経験しているのはリベイロとド・フェランだけで、ホンダ同様たった1回しか勝ったことが無いという陣営だった。
第2戦のブラジル、ほとんどのホンダドライバーが
予選上位からレースをスタートする | | 「前の年のインディ500でフロントローを獲ったことで、このすぐあとにほとんど全チームからオファーをもらいました。中でもニューマン/ハースとはかなり話がまとまって、ほぼ決まりかけたのですが、ちょっとしたことで意見が合わなくなった。こちらの考えを解ってもらえないのであれば仕方がないということで諦め、それからガナッシと話を始めたので、彼らは最後に決まったんですね」と、朝香は当時の舞台裏を話す。 トップクラスの実力を有していたニューマン/ハース・レーシングがもしこの時に決まっていれば、あのマイケル・アンドレッティもこの年からホンダ・ドライバーの一員になっていた。「彼はわざわざうちに電話をくれて、とても喜んでくれていたんですけどね」と朝香。アンドレッティの実力からいえば、チャンピオンも確実だったろう。もっとも、それは今だから言えることで、この年、ホンダが大躍進するなどとは誰も思わなかったはずだ。何しろまだ1勝しかしていないのだから。 アンドレッティはいなくとも、ホンダのドライバーとなった若手たちは開幕から予想外ともいえる大活躍を見せる。初戦のホームステッドではバッサーが参戦56戦目にして念願のCART初優勝を遂げたのを皮切りに、翌第2戦、初開催となったブラジルでは地元出身のリベイロが優勝。2年前にホンダがデビューしたオーストラリアで行われた第3戦は、バッサーがホンダにストリートコース初の勝利をもたらし、アメリカン・ホンダの地元ともいうべき第4戦の地、ロング・ビーチではまたもやバッサーが優勝。ホンダは開幕からいきなり4連勝を飾ることになったのだった。 前年に惜敗したインディ500の代わりとして行われたUS500では、スタートのアクシデントにほとんどのホンダドライバーが巻き込まれたが、その中で生き残ることができたバッサーが500マイルレースを初めて制覇。ホンダに待望の500マイル初優勝をもたらし、前年にインディ500で勝てなかったその雪辱を晴らす。また、スタートでクラッシュしてしまったリベイロは急遽バックアップカーに乗り換えたが、すでに200マイル走っていたエンジンであるにも関わらず、500マイルのレースを走りきって4位に入ったという事実も見逃せない。 「前の年のエンジンが良かったので、ほとんどそのままで96年もいきました。94年からみんなで苦しんで苦しんで仕上げたエンジンが、こうして結果を出し始めるっていうのはなんともいえないものがありましたね。やっぱりやればできるんだっていうのがあった。特に500マイルは我々の最大の目標だったから、ほんとうにうれしかったです。初めて表彰台に行ったんですが、そこで見た1ミリオンダラーのキャッシュに驚きましたよ」と朝香は目を細める。 |