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F1への挑戦の始まり

本田宗一郎は夢だったロードレース世界選手権(WGP)制覇を1961年、1962年に果たすと、次なる夢、F1勝利を目指しました。

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1961年10月、雑誌「オートモービル・イヤー」の編集長ガンター・モルター氏とオートカーライターのハリー・マンディ氏が宗一郎にインタビュー。通訳は、英語が堪能で好奇心旺盛な性格だったHonda技術部門の中村良夫が務めました。モルター氏がF1参戦に興味があるか訊ねると、宗一郎は「1年以内に参戦したい」と答えました。

プロジェクトはすぐにスタートました。1963年、伝説のF1ジャーナリスト、ジェラルド・ジャビー・クロムバック氏の案内で、中村はF1のマシンを開発していたコンストラクター3社、ブラバム、クーパー、ロータスを訪問。クロムバック氏はブラバムとの提携を薦めましたが、中村は印象的なアルミ製モノコックシャーシを導入したロータスの車体を評価し、それをロータスに伝えました。ロータスの責任者コーリン・チャップマン氏は、クロムバック氏へすぐに返事をし、翌月にHondaを訪問。そこで宗一郎は、1964年のエンジン供給提携に合意しました。

フェラーリの190馬力の1.5リッターV6エンジンを搭載した「シャークノーズ」は、イギリスのチームであるロータスとローラ(コベントリー・クライマックス・パワー)、BRM(独自エンジンを搭載)の新型V8エンジンに性能で差をつけられていました。これらの新型V8エンジンは約200馬力を発生させ、Hondaが正式にF1に参戦した1964年には205馬力、1965年には210馬力まで性能を上げています。チャップマン氏は、他のエンジンメーカーとは違うHondaのビジョンに感銘を受けました。

Hondaのエンジンは12気筒で、60度のV字に配置され、各気筒はWGPで優勝した125ccのオートバイエンジンをベースにしていました。1964年には220馬力、翌年には230馬力のエンジンを開発。ホイールベースを適正な重量配分に収め、ハンドリングのスペースを確保するために、横向きにマシンに搭載しました。フェラーリの1961年世界チャンピオンで自動車評論家のフィル・ヒル氏は、この設計を最初に見たとき、「Hondaは後ろにバイクのエンジンの排気口を横向きに積んで、突っ走るつもりなのか」と、マシンとその技術に非常に強い関心を持ち、すぐにその本質的なすばらしさに気が付きました。

4気筒ずつ2組に分かれ、それぞれが少しずつ違う働きをするように設定。他方のグループを補完することで、スムーズなパワーカーブを実現するだけでなく、さまざまなタイプのコースで最適なパフォーマンスを発揮するように調整できました。エンジニアのブライアン・ハートは、その複雑な排気システムを 「タコがエンジンに張り付いているように見えた」と語っています。

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その後「RA271Eエンジン」のアルミ製モックが12月初旬にロータスに送られましたが、取引はそこから進みませんでした。クロムバック氏は、エンジンメーカーのコヴェントリー・クライマックス社が水平対向16気筒仕様のエンジンに着目するための交渉ツールとしてチャップマン氏がHondaとの開発計画を利用したと考えました。また、ロン・トーラナック氏 (ブラバムのエンジニア兼レーシングカーデザイナー)は、チャップマン氏が意図的に計画を遅らせることで、ほかの企業がHondaのエンジンを使用できないようにしたと考えていました。

一方、中村によると、Hondaは鈴鹿でエンジンをテストするためにロータス車を想定したテストカーを造っていました。宗一郎は1964年1月30日に社内報でエンジン開発の計画を発表し、2月15日にはテストカーの写真も発表されました。

しかし、その頃、チャップマン氏からついに「ロータスは取引を進められない」という電報が送られてきたのです。そのため、宗一郎は自社でマシンを開発する決断をしました。そして中村は「RA270」のテストカーを改造し、Honda初のF1マシン「RA271」を開発しました。

次なるHondaのチャレンジ(1964-65)

それまで二輪のレースに参戦しF1とは無縁だった日本のメーカーによる初めての参戦に、F1界は沸き立ちました。しかし、Hondaのドライバーの選出に周囲は驚きました。選ばれたカルフォルニア出身のロニー・バックナム氏は、アメリカ西海岸のスポーツカーレースで活躍していた測量士で、国際的には無名でした。

Hondaはアメリカ人ドライバーと契約を希望していて、中村によると唯一興味を示したドライバーがフィル・ヒル氏でした。しかし、元世界チャンピオンである彼は、報酬が高価なだけでなく、彼の存在だけで注目が集まるほどの知名度でした。無名のドライバーが運転したほうが、Honda車がより評価されると考えられたのです。

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7月25日に行われたザントフォールトでのテストセッションを経て、RA271のレースデビューの準備が整いました。デビュー戦は、世界でも有数の過酷なサーキット、ニュルブルクリンクでの開催となりました。

バックナム氏はニュルブルクリンクを訪れるのは初めてで、エンジンのオーバーヒートの影響で練習走行は5周しかできませんでした。予選ではトップのジョン・サーティース氏(フェラーリ)より1分弱も遅いラップタイムで、決勝では全22台のグリッドの最後尾。しかし、最終的には、カルーセルのコーナーでステアリングにトラブルが起こりレースをリタイアしたものの、11番手まで順位を上げてBRMドライバーのリッチー・ギンサー氏とバトルを繰り広げたのです。

Hondaは2台目のマシンの組み立てが間に合わずに、オーストリアGPへの出場を逃しましたたが、モンツァでのイタリアGPには参戦しました。「ギンサー選手と同じ1分40.4秒で予選を通過した!」とジム・クラーク氏から報告を受け、バックナム氏は喜びました。そのラップタイムは、初めてコースを訪れたギンサー氏と同じタイムでした。このレースでも、サーティース氏が再びポールポジションを獲得しましたが、Hondaとフェラーリとの差はわずか3秒でした。モンツァのような高速サーキットでHonda車の力が発揮されたのです。

バックナム氏はブレーキの問題と水漏れで再びリタイアを余儀なくされましたが、レース中は5番手まで順位を上げていました。その後のアメリカGPでは、予選14番手で再びギンサー氏と同列からスタートしましたが、マシンがオーバーヒート。完走できませんでした。

この年の最後、Hondaはメキシコでのレースをリタイアし、1965年のレースに専念。翌年のドライバーに期待していました。バックナム氏の働きかけで、ギンサー氏がBRMのセカンドドライバーから移籍。Hondaの新型「RA272」のドライバーになったのです。

1965年、モナコGPではまずまずのスタートを切ったものの、早々にリタイアに追い込まれます。しかし、ベルギーGPでは予選4番手、決勝6位でHondaはついに、初の世界選手権ポイントを獲得しました。

フランスGPではイグニッションの問題に悩まされましたが、イギリスGPではギンサー氏が予選3番手でフロントローを獲得。グラハム・ヒル氏とジャッキー・スチュワート氏の運転するBRMを引き離し、ポールポジションを獲得したクラーク氏とはわずかに0.5秒差でした。

続く決勝でHondaはハンガーストレートまでは先頭を走りましたが、燃料噴射の問題でリタイアとなってしまいました。しかし、多くのチームがHonda車に注目しました。

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HondaはオランダGPでザントフォールトをギンサー氏だけに走らせ、予選ではヒル氏のポールポジションから0.3秒差。2番手のクラーク氏と同じラップタイムで、再びフロントローを獲得しました。決勝では、ベストスタートを切ると3周目にヒル氏に抜かれるまで先頭を走り、6位でフィニッシュしました。

ドイツGPは欠場することになりましたが、モンツァで行われたイタリアGPには2台のマシンで参戦。バックナム氏は予選6番手、ギンサー氏は17番手でしたが、またしてもイグニッショントラブルで2台ともリタイアとなりました。

アメリカGPでは、ギンサー氏は予選4番手、ポールポジションを0.15秒差で逃しました。決勝は7位、バックナム氏は13位でフィニッシュしました。そして、いよいよHondaの歴史として語り継がれるメキシコGPがやってきました。

予選では、スタート時にブラバムのガーニー氏に先行されると、首位に立つことができず、ギンサー氏はクラーク氏から0.31秒遅れの3番手でした。決勝では、ギンサー氏は堂々と勝負するとレースをコントロールし、ガーニー氏に2.89秒差をつけてギンサー氏、Honda、グッドイヤー社の3者にとっての初優勝となりました。さらにバックナム氏も5位に入る快挙。中村は東京に「来た! 見た! 勝った!」とローマのガイウス・ユリウス・カエサルの言葉を引用した電報を打ちました。

しかし、このレースが1.5リッターエンジンの最後のレースでした。1966年シーズンに向け、F1は「パワーへの回帰」として3リッターエンジンを採用しました。Hondaは、わずか18か月間で驚異的な進歩をし、トップまで上り詰めた瞬間、再びイチから開発をしなければならなくなりました。

3リッターエンジンの時代(1966-68年)

新しいエンジンはV12のままでしたが、今回は90度縦置きに搭載し、クランクシャフトの中間部からパワーを出力しました。新型「RA273」は1万回転で385馬力を発揮するパワフルなマシンでしたが、743kgの車重は規定の最低重量500kgよりもはるかに重く、9戦中7戦目のイタリアGPでようやくギンサー氏のみで参戦となりました。

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ギンサー氏はトップ争いを続けていましたが、17周目、左リアタイヤのトラブルで、高速で林の中に突っ込んでしまいました。マシンは大破したものの、彼は幸運にも無傷で脱出。Hondaは2台のRA273を用意し、1か月後のアメリカGPは、彼とバックナム氏が運転することになりました。ギンサー氏はスタートで8番手から一時3番手に浮上しましたが、27周目から徐々に遅れをとりました。一方のバックナム氏はエンジントラブルに見舞われてしまいました。

メキシコではギンサー氏がスタートでトップに立ちましたが、優勝した1965年とは異なりペースを維持することができず、優勝したジョン・サーティース氏(クーパー・マセラッティ)や、ジャック・ブラバム氏(この年のワールドチャンピオン)、デニー・ハルム氏(ブラバム・レプコ)に続いて4位でフィニッシュしました。

1967年、HondaはWGPのレーサーであるサーティース氏をドライバーとして起用し、RA273の改良版をレースで走らせました。サーティース氏は当時、イギリスのスラウで、Hondaのメカニックと共に、小さなサテライトチームを運営していました。

幕戦の南アフリカGPでは2位争いをしたものの、惜しくも3位となりました。

彼はブランズハッチで行われたノンチャンピオンシップレースでダン・ガーニー氏とリッチー・ギンサー氏のイーグルスと勝負をしましたが、決勝でリタイアし。オルトン・パークのレースではブラバム氏、ハルム氏と争い、総合3位となりました。

トップ争いをしたモナコGPではエンジンが壊れ、オランダGPではスピンすると、ベルギーGPで再びエンジンが故障しました。彼らはチームの再編成のためにフランスGPの参戦を見送ると、イギリスGPでは6位でフィニッシュし、ドイツでは4位を獲得しました。

ザントフォールトで、ロータス49と新型フォード・コスワースDFV V8は、軽いシャシーとパワフルで軽量のエンジンを導入し、ストロークのデザインパラメーターを見直しました。サーティース氏はRA273の重量を軽くする必要があることを知り、改造したローラT90インディカーのシャシーとV12を組み合わせることを思いつきました。イギリスGPの後に作業が始まり、ほかのチームがカナダでのグランプリに向かう中で、マシンを完成させました。新車の「RA300」は、Lotus 49クラスには及ばなかったものの608kgと大幅に軽量化され、モンツァでのデビュー戦では9番手で予選を終えました。

決勝はスリップストリームを使った大接戦となり、終盤には序盤でパンクしたクラーク氏とサーティース氏、ブラバム氏の三つ巴の戦いとなりました。サーティース氏は残り3周でブラバム氏の前に出ましたが、最終周のレスモカーブで燃料不足に陥り、ペースを落としてしまいます。最後のカーブ「パラボリカ」で、サーティース氏はブラバム氏にトップを奪われます。しかし、路面のオイルで、ブラバム氏がバランスを崩してコーナーで大きくスライドすると、サーティース氏はすかさずインを取り、アクセルを踏み込み、リードを奪い返しました。「ティフォシ」と呼ばれるイタリアの熱狂的なファンが彼の名前を叫ぶのを感じながら、12,000rpmまでエンジンを回転させ、3速ギアをキープし、ブラバム氏に0.2秒の僅差で勝利しました。Hondaは2度目のF1優勝とRA300の初勝利を手にしました。

デザイナーのデリック・ホワイト氏は、1968年シーズンに向けRA300を改良し「RA301」を製作しました。搭載されたエンジンは430馬力を誇りましたが、重量は649kgもありました。

雨のフランスGPでサーティース氏は2位に入りますが、空冷V型8気筒のRA302はクラッシュしてしまいます。イギリスGPではリアウイングの破損で5位、アメリカGPでは3位となり、12ポイントを獲得して総合8位となりました。うまくいけば、本格的なタイトル争いができるはずの年でしたが、それ以外のGPではリタイアばかりでした。

スペインGPではギアボックスが故障するまでは快走し、ベルギーGPではファステストラップを記録し、リードしていましたが、リアウィッシュボーンのマウントが破損しました。オランダGPでは、イグニッションとオルタネーターの故障でうまくいかず、ウエットコンディションのドイツGPでは、スタート前の長時間に及ぶ遅延の影響でオーバーヒートし、序盤で点火不良に。イタリアGPではポールポジションを獲得してトップに立つも、大クラッシュ。カナダGPでは混戦でしたがギアボックスの初期不良が発生。メキシコGPではスタート直後にトップに立ちましたが、オーバーヒートで後退してリタイアしました。

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残念なことに、HondaのF1第一期と呼ばれる時代はこれで終わりを迎えますが、四輪レースの最高峰でトップに立つために、真正面から挑戦し、Hondaのレース精神の礎が築かれた時期でした。

サーティース氏は、1967年にHonda F1に参加したときの気持ちを次のように語っています。
「Hondaはバイクのことをやってきた企業なので、ここからがスタートだと思っていました。ライバルよりも確実に少ない、非常に限られた予算でしたが、さまざまな問題があったにもかかわらず、いい勝負をしていました。競争力のあるチームだったので、車体の重さの問題さえ解決していれば、あの年はチャンピオンになっていたかもしれません」

実際にはHondaが参戦できなかった、1969年の参戦に向けて、デリック・ホワイト氏はすばらしいシャシーを作り、川本信彦は新しい軽量エンジンとギアボックスを開発していました。開発中だった、コンパクトな新型V12エンジンは、クランクシャフト後部で従来と同様のパワーを出力し、490馬力12,000rpmを実現していただろうと川本は述べています。しかし、S360、T360、S500などの市販車の開発に力を入れるため、HondaのF1プロジェクトは予算削減を余儀なくされ、中止となりました。

「その理由はもちろん理解していましたが、のちのHonda F1 第二期と呼ばれる時代は、もっと早く来てもよかったのではないかと本気で思っています」とサーティース氏は語ります。「RA301はいい車で、新しいエンジンとギアボックスさえあれば、もっとコンパクトで軽量になっていたでしょう。実現はしませんでしたが」

数年後、ウィリアムズと組んだHondaはF1で勝利を重ねます。当時Honda代表取締役社長だった久米是志は、1968年にRA301のエンジニアを務めていて、サーティース氏に次のようなメッセージを送りました。
「あのときのあなたの協力がなければ、今の成功はなかったでしょう」

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