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 真夏の祭典、鈴鹿8時間耐久レース(8耐)が始まったのは78年。その2年後に4時間耐久レース(4耐)が始まる。8耐が国際ライセンスを持った世界のトップライダーたちの熾烈な戦いなら、4耐は国内ライセンスの可能性を秘めたライダーたちによる、チャンスを掴む為の戦いだ。バイクの甲子園、ライダーの登竜門と呼ばれ、全国から夏の鈴鹿を目指し才能溢れたライダーが集結する。その激しさを勝ち抜いた誇りはライダーの勲章として輝く。4耐で活躍した無名ライダーが一夜にして有名ライダーとなりチャンスを掴んでいることは周知の事実で、数多くの有名ライダーを輩出している。

初年度の覇者は、後にロードレース世界選手権(WGP)250の戦いに飛び出して行く福田照男だった。ペアは森永達也組(Y)。そして、空前のバイクブームを背景に83年モリワキの福本忠と宮城光(H-CBX400F)が優勝し脚光を浴びる。宮城はノービスライダーたちの憧れを一身に集めスターダムを駆け上がり、当時ヒーローとして絶大な人気を誇った平忠彦に匹敵する注目度を集め、多くのメディアに引っ張りだことなる。後に宮城はHondaワークスライダーへと成長して行った。その後の84年、85年とH-VF400Fが勝ち、Honda4耐3連覇を達成している。86年には高吉克朗/石山均(S)が勝利、高吉は、その後ヨシムラのエースライダーとなった。

年を重ねる毎に4耐の注目度は増し、88年には史上最高の619台(N−TTF3クラス273台、SP400クラス346台)がエントリー、過激さを増した。この中からグリッドに並べるのは約10分1の60台。予選に落ちてしまったチームたちの救済として予選61位から120位までのチームには2耐が開催され、それに勝ち残った3チームが夢の4耐の出場権を得ることになった。そして、4耐にも8耐にも出ることの出来ないジュニアライセンスのライダーたちのために、後に6耐となるジュニア4時間耐久も始まった。

89年には国際A級の8耐を頂点にジュニア6耐、ノービス4耐、2耐と段階的な時間構成となり世界でも類を見ない完全な耐久レースのピラミッドを形成することになった。その中でも若さをぶつける初々しいライダーたちの戦いである4耐の魅力は、8耐に並ぶものとして8耐ウィークにはなくてはならないものとして地位を確立する。

'90年の覇者、宇川徹/柳川明組(NSR250R)

4耐ではこの頃まで、4サイクル400のマシンが勝ち続け、4サイクル有利が囁かれていた。だが、87年あたりから2サイクルマシンの活躍も顕著となり始め、ついに90年、H-NSR250Rを駆る宇川徹/柳川明が優勝を飾り2サイクル時代の幕が開ける。宇川は91年にはジュ二ア6耐も制している。その後Hondaワークスライダーとなった宇川は、8耐では、記憶に新しい昨年の優勝で日本人初の8耐3勝目の記録を作ったが、同時に4耐、6耐、8耐を制した唯一のライダーとしての記録も持っているのである。現在はWGP500ライダーとして世界を駆け巡っている。4耐ペアライダ−の柳川もカワサキワークスのワールドスーパーバイク(WSB)チームのエースライダーとして世界を舞台に戦っている。91年4耐では及川誠人/辻村猛がH-NSR250Rで頂点に立つ。辻村は世界GP125の活躍を足がかりに現在はヤマハワークス入りし、全日本SBに参戦している。

'92年の覇者、青木治親/藤原克昭組(NSR250R)

92年から、これまではTTF3マシンとSP400の混走で争われていた4耐が、SP400とSP250の混走となった。SPクラスは一般市販車をベースにマフラーなどを含め比較的狭い改造範囲しか認めないプロダクションレースで、マシン格差が抑えられ例年にも増す激しさで争われることになった。この年、青木3兄弟の末っ子、青木治親が藤原克昭と組みH-NSR250Rで優勝を飾り、H-NSR250Rに4耐3連勝をもたらした。青木はWGP125V2チャンピオンを獲得する世界的なライダーとなり、現在もWGP500で戦っている。ペアライダーの藤原もスーパースポーツ世界選手権で世界を転戦中である。

93年SP4耐では加藤大治郎がスーパールーキーとして参戦、惜しくも優勝を逃すが、その後、Hondaワークスライダーとなり、WGPで活躍しているのはご存知の通り。たとえ、勝つことが出来なくても、その走りに輝くものがあれば、認めてもらえるチャンスが4耐には潜んでいる。結果として、大治郎にとって4耐は大きなステップボードとなったのだ。
94年は中野真矢/山内俊児(Y)が勝利するが、注目を集めたのは、2位となった武田雄一/池田吉隆(H-NSR250)との激しい戦いだった。後に中野はヤマハワークスへ、武田はHondaワークスへとチャンスを掴むことになる。

94年、6耐の歴史が閉じ、NK4耐がスタートを切る。アップハンドルでエンジン剥き出し、鉄フレームのネイキッドバイクのレースが始まった。「上位入賞マシンは希望者がいれば120万円以下で売却する」という規定のため、無制限にお金をかけるわけにはいかないことからマシン差を抑え白熱したレースが期待された。エントリーは国際A級から国内C級まで。(この年は国内B級以上)114台のエントリーを集め、耐久の名物レースとして育つことになる。
'95年の覇者、酒井大作/山本琢磨組(NSR250RSP)

95年のSP4耐では鈴鹿サーキットレーシングスクールの13歳の酒井大作が山本琢磨(H-NSR250RSP)と組み優勝、最年少覇者となった。

数々のドラマを刻みつけたSP4耐も2000年を最後の戦いとし幕を閉じることになる。9年間に渡って戦われたSP4耐の最後の栄冠を掴んだのは手島雄介/三瓶陽介(Y)だった。