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ゴルフの雑学・マメ知識日本とハワイを結ぶ偉大なローカルトーナメントハワイパールオープン物語(3)

2010.04.28

※このコンテンツは、2010年3月時点の情報をもとに作成しております。
※ハワイパールオープンは、2013年の第35回大会で終了しました。

和やかな雰囲気が口コミで広がり、出場選手は増え続けた

買ったのはいいが、誰かが運営しなければならない。不慣れなゴルフ場経営を任されたのは尾形だった。
「ゴルフ場を開発したことはありましたが、経営はしたことがなかったから、半分好奇心で引き受けたんです。神様に勉強しろ、と言われているような気もしましたしね」

ハワイのゴルフ場を経営するにあたり、さしあたって直面しなければならない問題が2つあった。1つはコース内に約600本あったヤシの木。見栄えはいいが、ヤシの実が落下してくる危険があるのだ。
「当たると即死なんで実を落とさなければならないんですが、これに莫大な費用がかかるんです。それ専用の職人を雇って彼らが木に登って落とすんですけど、下から見えないのをいいことに全部取らずに残していったりするんですよ。仕事が欲しいから。そういうハワイ特有のコストがバカにならないんで、ヤシの木自体を根本から掘って売ろうとしたんですが、調べたら最も品種の悪いヤシの木で、全くお金になりませんでした」
結局、必要最小限のヤシだけ残し、残りは伐採した。

2つ目の問題は会員がいると思い通りに運営できないことだ。尾形はさっそく銀行に既得会員権を返還してもらうように働きかけ、新生パールCCはパブリックコースで始めることになった。儲けはトントンでいいから世のため人のためになることをやれ、というのが本田宗一郎から与えられた課題。そこで地元のゴルフをよく知っている有力者10名でコミッティを組織し、どのように運営すべきかを協議したところ、白人5名、日系人5名から成るコミッティから出たのが「地域密着のコースを作る」「ハワイのゴルファーを育てる」という基本方針だった。

その具体的な方法をあれこれと模索した末、日本のプロとハワイのゴルファーの親睦を兼ねたゴルフ場主催のトーナメントをやろうということになった。

「日本のプロと戦えばハワイのゴルファーのレベルアップになるし、年に一度オヤジさんが来てプレゼンターを務めれば、本田宗一郎が来る!っていうんで地元の州知事とか、各界のトップクラスも参加してくれるし盛り上がるじゃないですか」
こうして1979年に第1回パールオープンが開催されたのだが、最初から有力選手が集まったわけではなく、日本のベテランプロに若手を連れてくるように頼んでいた。さらにはハワイアンオープンのマンデーを誘致し、パールオープン最終日の翌日にパールCCでマンデーが行われるようにした。日本からはるばるやって来てパールオープンに出場する魅力を増やすべく、予選落ちしてもハワイアンオープンのマンデーに挑戦できるようにしたのである。

「ある年なんか、パールオープンに予選落ちしたプロがマンデーを通ったはいいんですが、試合に出るお金がなくなっちゃったらしいんです。いまじゃ立派なシニアプロですが、当時はペーペーでしたからね。泣きついて来たんで貸してやったんですけど、試合に着ていくシャツもないっていうんです。仕方がないから新しいシャツを買ってやって、さあ頑張って来い!って送り出そうとしたら、今度は『社長、ワイアラエCCってどこですか?』とこうですよ(笑)。結局キャディまでやってやったなんてことがありましたね」

こんなドタバタ劇が毎年のように繰り広げられたが、と同時に、パールオープンの和やかな雰囲気は口コミで広がり、毎年着実に出場選手は増え続け、いつしか日本とハワイの架け橋として大きな意味を持つ試合となった。

クラブハウスのエントランス

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