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ゴルフの雑学・マメ知識日本とハワイを結ぶ偉大なローカルトーナメントハワイパールオープン物語(2)

2010.04.15

※このコンテンツは、2010年3月時点の情報をもとに作成しております。
※ハワイパールオープンは、2013年の第35回大会で終了しました。

「儲けはトントンでいい、世のため人のためになることをやれ」

「本当はゴルフ場を買おうなんていうつもりなんて毛頭なかったんですよ」そう語るのは本田開発興業社長の尾形次雄。若い頃より本田宗一郎の薫陶を受け、パールCC取得およびパールオープン開催に際して実務に携わった尾形は「ミスター・パールオープン」と自他ともに認める人物だ。広告デザインなどを手がける株式会社東京グラフィックデザイナーズの社長を兼任する尾形が東京青山のオフィスでパールCC取得のいきさつについて話してくれた。

本田開発興業社長 尾形次雄

「ゴルフ場を買わないかという話は、創業時大変世話になった大手銀行から本田技研工業に持ち込まれたんですよ。1970年代の半ばごろでしたね。その銀行の関連会社がハワイでパールCCを開発しメンバー募集をかけていたんですが、第一次オイルショックのさなか、大蔵省からの指導もあり手放さざるをえなくなったんですね」

製造業一筋の企業風土を持つHonda。ゴルフ場経営など考えも及ばなかったが、当時の河島社長は若干45歳。大恩義がある銀行からの頼みを無下にも断れない。そこで断る理由を探すためHondaの役員室から現地視察を命じられたのが、デザイナーとして都市開発やゴルフ場開発に関わっていた尾形だった。

さっそく尾形がハワイに飛ぶと、当時のパールCCはハワイ特有の赤土が剥き出しになったお世辞にもきれいとはいえないコースだった。評価額を試算してみると銀行が提示した販売金額の半分にも満たない。帰国後、資料と数字を添えて丁重にお断りすると、銀行側は「その金額でもいいから」と後へ引かない。困った役員たちが考え付いたのが、顧問の本田宗一郎が設立した本田開発興業で買い取るという案だった。本田開発興業は本田財団、国際交通安全学会の発足と共に設立された会社で、「世の中のためになること、本田技研工業本体ではできないことを行う」を企業理念としていた。そのとっかかりとしてホンダ学園を創立し学校事業に乗り出しているときに、この話が降って沸いたのである。

パールCC クラブハウス

「Hondaではできないことを、というのが会社設立の趣旨だからちょうどいいし、当時の役員たちには引退したばかりのオヤジさんに毎日工場に来られても困るな、という思いもあったんですね。ハワイに目を向けさせようという魂胆です(笑)。しかし誰もその案をオヤジさんに話したがらないんですよ。ある役員が意を決して恐る恐る切り出すと、案の定『オレの金でハワイのゴルフ場を買うだって?ふざけるな!バカヤロウ!!』と一刀両断ですよ。それでも引き下がらず『しかし顧問、あの銀行からの融資がなければいまの本田技研工業はなかったかもしれません。ようやくあのご恩にお返しできる時じゃないですか。本当に困っているみたいだから助けてあげましょうよ』って一生懸命説得したわけです。それでようやく『そうか、じゃあ見に行くだけ見に行こうか』ということになりました」

尾形と共に視察に訪れた本田宗一郎はパールCCを見るやモノ作りの血が騒いだらしく、「なんだこの汚いゴルフ場は!ここをすぐ直せ!あそこにはネットを張れ!」と次々と細かく改造の指示を出し始めたという。
「そんなこと言ったって顧問、まだ買っていませんよ」
「あ、まだ買ってないのか」
こういうマンガのようなやりとりが実際に交わされた末、パールCCは本田開発興業の所有となった。

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