今でこそトラクションコントロールという言葉もその概念も広く知れ渡ったが、NSXが目指したTCSは一般に認識されているトラクションコントロール、すなわち路面に対して過大な駆動がかかったとき駆動輪が空転するのを防ぎ、最大効率の加速を実現するものよりもさらに一歩踏み込んだものだった。
NSXは“快適F1”として生み出されようとしていた。そのためには、ただ加速効率が良いだけではなく、優れたコーナリング性能を安定した状態で発揮できなければならなかった。
これは単純に前後方向の駆動力を制御するだけの一般的なTCSでは実現することはできない要求であった。

「ドライバーの意志にトラクション制御が割り込み過ぎると面白くないクルマになってしまいます。コーナリング中のドライバーが“もうちょっと行けるな”と思っているのにトラクションコントロールが働いてしまったらドライビングは楽しくなくなる。だからトラクション限界ギリギリまでは人間がコントロールできるTCSにしたかったのです」

そこで、走って楽しい“快適F1”のためのTCSを実現するために白石がたどりついたのは、加速時の前後方向の駆動に加え、コーナリング時の横方向のグリップにも着目し、これを制御するというアイデアだった。だがひと口に横方向のグリップと言っても、乾いた路面、濡れた路面、氷の上などスリップを許容する幅が異なってくる。
ドライ路面ならば多少滑ってもクルマはそれほど不安定にはならず、むしろ滑らせた方が逆にヨーモーメントが出てコーナリングを早く終わらせることができる場合もある。しかし、濡れた路面で同じだけ滑らせてしまうとクルマの挙動変化に修正が追いつかなくなってしまうのだ。

現在車体が置かれている路面状況の違いを感知して制御しなければ、横方向のグリップ制御をすることはできない。ここに開発の大きな課題があった。
「発想の転換が必要でした」と白石はいう。
「グリップ力が高まっているのか弱まっているのかを感知してやろう、それによってTCSの効きを緩和してやろう、そのためには横加速度を感知しよう、ということになりました。しかし、当時はクルマへの搭載に適した横Gセンサーなどありませんでした」
トラクション コントロール システム

そこでひねり出されたのが、旋回中の左右輪の回転数差を拾い、ヨーレートの近似値を算出。それに車速を掛け合わせて横方向の加速度を求めるというアイデアだった。前後方向の加速度は前輪の回転数の変化から比較的容易にわかるため、横方向の加速度がわかれば、タイヤが路面に対して発揮するグリップ力と加速度の方向の関係を示すいわゆる摩擦円の大きさが推定できる。
摩擦円が大きければパワーがかけられるのでTCSの効きを弱めてやり、摩擦円が小さくなったら滑りやすい状態なのでTCSを最大限まで効かせてやる。こうした分析と制御を1秒に200回というオーダーで繰り返す。こうすることによって、最大効率の加速を確保しながら、スポーティなコーナリングを安定した状態で実現するTCSが可能になるのだ。

「縦方向のスリップ制御と違って横方向のグリップも制御するTCSは、安定性をサポートすると同時に運転する楽しさもあきらめないシステム。これはおそらく、初めての発想だったと思います。NSXはミッドシップのスポーツカーであり、運転する楽しさを失っては意味がなかった。運転して面白いクルマでありながら、快適かつ最適に高い運動性能を引き出すシステム、それが我々のTCSだったんです」 NSXが搭載したTCSは、充分な車輪のスリップコントロール性を確保した上で、相反する高いスポーツ性や快適性などを実現し、NSXの“快適F1”性を支えた。このTCSを開発するために、きわめて高精度の計測技術が必要だった。

興味深いのは、TCS開発のために追究された計測技術はTCS完成後、異なる形でひとつの成果へと発展したことだ。ホンダ・ドライビングアナライザーは、走行中の車両の状況を精密に計測しデータとして記録することで、ドライバーの運転技術を解析するシステムである。これはTCS開発に用いられた計測技術を基盤に開発された。

このシステムはTCS完成後、レース活動やNSXドライビング・アカデミーなどで活用されている。 白石の「制御技術と計測技術は表裏一体」という言葉は、優れたTCSを生み出した計測技術が、それだけでドライビングアナライザーとして活用されるシステムとして成立したという事実によって証明されたのである。
トラクション コントロール システム

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NSX Press vol.23 1999年4月発行